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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈キリストの聖体〉


イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である」(マルコ14・22)。




〈聖なる過越の三日間〉からはじまり、〈主の昇天〉、〈聖霊降臨〉、そして〈三位一体〉という大きな典礼の祭日を祝ってきた教会は、〈キリストの聖体〉によって、この一連の〈祝い〉を締めくくりますが、これは意味の無いことではありません。なぜなら教会は、〈キリストの聖体〉を「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(『現代世界憲章』11)※1と宣言するからです。

それはどういうことでしょうか。聖ヨハネ・パウロ2世は回勅『教会にいのちを与える聖体』の中で次のように述べています。

聖霊降臨のときに聖霊を与えられることによって教会は生まれ、この世の道を歩み始めました。しかし、教会が形をとった決定的な瞬間が、二階の広間での聖体の制定(主の晩餐)だったことは間違いありません。教会の基礎となり源となったのは、聖なる過越の三日間の全体です。とはいえ、この聖なる三日間をいわば永遠にとりまとめ、前もってかたどり、その「中心」となるものは、聖体の授与だということができます。イエス・キリストは、聖体を与えることによって、教会が過越の神秘を永遠に現存させるよう命じました。こうしてキリストは、時代が変わっても、聖体が聖なる過越の三日間におけるものと「時を超えて同一である」という神秘を実現させたのです※2。

つまり、2000年前のエルサレムのとある高間で行われたイエスによる〈聖体〉の制定の出来事こそ、教会の生まれた原因であり、その目的でもあると言えるのです。そして、それは歴史全体を包み込む神の〈あがないの恵み〉の実現です。そうであれば、この〈聖体〉祭儀にあずかるとき、目の前の司祭の手による秘跡の執行をとおして、わたしたちは2000年前のエルサレムの高間でのイエスの言動とその心の内面に想いを寄せることが、どれほど大切なことかがわかるでしょう。と同時に、そのことにより一層強く思いを馳せなければならないのは、他でもないその祭儀を執行する〈司祭〉だということに、想いがいたるでしょう。

アシジの聖フランシスコは、聖体祭儀を執り行う司祭は、どれほどの任務をイエスご自身から託されているかをわきまえるべきであると、兄弟達に諭しています。

私はまた、いと高きお方の司祭である兄弟、将来そうなる兄弟、また、そうなりたいと望んでいる兄弟、このすべての私の兄弟に、主においてお願いします。いつでも、ミサを捧げようと望む時には、司祭は清い人として、また、清い意志をもって、尊敬を込め、聖にして汚れのない意向をもって、私たちの主イエス・キリストのいと聖なる御体と御血の真実の犠牲を捧げるべきです。この時、どのような地上的な利益のためでもなく、「人々にへつらおうとする」人への恐れや愛のためでもなく(エフェ6・6、コロ3・22参照)、いと高きお方だけが、思し召しのままにこれを行われるのですから、主の恵みに助けられて、ただ主にのみ嘉せられようと望みつつ、意志を残りなく、神に向けなければなりません。なぜなら、主自ら「私の記念としてこれを行いなさい」と仰せになっているからです※3。 


ヨハネによる福音書は、この主の晩餐の場面で、イエスが手ぬぐいを腰にまとい、弟子達の足を洗った様子を描きますが、そのときのイエスの想いを次のように述べています。「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。

この言葉には、自分の使命を託す弟子たちに対するイエスの無上の愛が溢れています。弟子たちは、この世において、このイエスの愛を〈聖体〉の秘跡をとおして、世の終わりまで〈再現〉し続けなければなりません。それは、イエスご本人を、この世界に現存させることを意味します。

フランシスコにとって、〈聖体〉の秘跡は、その奉仕者である〈司祭職〉と切っても切リ離せないものです。先に引用した言葉もそうであるように、彼が司祭の兄弟たちに宛てた手紙にはその想いが満ちています。そこには、御自分を余すことなく人間に渡される神の究極の〈へりくだり〉に対して、その奉仕者がどのようでなければならないかが、情熱を尽くして語られています。

私の兄弟たち、聞きなさい。・・・も早死ぬことなく、永遠に生きて栄光に満ちておられる方、「天使たちも見たいと願っている」方を(Ⅰペトロ1・12)、手で触れ、心と口に拝領し、人々に拝領させる司祭は、どれほど聖にして義しく、どれほどふさわしくなければならないことでしょう!司祭である兄弟たち、あなたたちの尊厳を認めて、「神が聖なる方であるので、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ19・2参照)。この奉仕職のために、神である主は、あなたたちに、すべての人に勝って、名誉をお与えになったのです。それで、あなたたちも、すべての人に勝って主を愛し、尊び、崇めなさい。

「生ける神の子キリスト」が(ヨハ11・27) 
祭壇の上 
司祭の手の中におられる時、
全人類は震えおののき、全地はゆれ動き、天は喜びおどるべきです。
ああ、なんと驚嘆すべき偉大さ、
なんと驚嘆すべき御稜威!
ああ、なんと偉大な謙遜、
なんと謙遜な偉大さ!
全宇宙の王、神、神の御子が
私たちの救いのために小さなパンの形色のうちに隠れるほど、へりくだられるとは!

兄弟たち、神の謙遜を見なさい。
そして「あなたたちの心を神の御前に注ぎ出しなさい」(詩62・8)。
あなたたちも「へりくだりなさい。そうすれば、神が高めてくださいます」(Ⅰペトロ5・6)

ですから、あなたたちのものを何も、自分たちのために取っておかぬようにしなさい。
それは、御自身を残りなくあなたたちにお与えになる方が
あなたたちを残りなく受け入れてくださるためです。※4、、



フランシスコが〈聖体〉の秘跡に感じたこの震えるような想いを、わたしたちも共に抱くことが出来るよう、願いたいものです。



※1『第二バチカン公会議公文書改定公式訳』、第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会監訳、2013年、140頁。
※2教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『教会にいのちを与える聖体』カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画訳、カトリック中央協議会、2003年、8頁。
※3『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、98-99頁。
※4同書、100-102頁。

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