見出し画像

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第14主日〉


イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた(マルコ6・4)。




イエスと弟子たちの一行は、イエスの慣れ親しんだ〈故郷〉である、ナザレにやってきました。〈故郷〉とは、家族や親戚をはじめとして、大人に成長していく段階で、自分自身の人格形成に深く関わった、ありとあらゆる機会や経験が詰まった、わたしたちの〈アイデンティティー〉が育まれた場所です。人間イエスにとって、ナザレは、人としてのアイデンティティーを確立していった、かけがえのない場所であったはずです。そのナザレで、神の子としての宣教の使命を果たすために戻ってきたことは、大きな意味があったでしょう。

しかし、その故郷で、イエスは思わぬ壁に突き当たります。人々は「イエスにつまずいた」(6・3)のです。人々は、イエスを子どもの頃から知っていました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(6・3)という彼らの言葉から、イエスが人々と暮らしていた当時、イエスやその家族は、周囲の人々と全く変わらぬ、ごく平凡で目立たない一隣人であったということが伺えます。しかし、自分達と何ら変わらぬその隣人にすぎない彼が、しばらくぶりに戻ってきたら、権威をもって神の教えを説いていることに、彼らは大きな戸惑いと、疑念、嫌悪を抱いたのです。

イエスは、このようなよく見知った故郷の人々からの反応に、深く傷つかれたかもしれません。タイトルの言葉(6・4)がイエスの口から発せられたのはこの時です。結局、イエスは「ごく、わずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできに」(6・5)なりませんでした。このことは、イエスのいやしという〈神の恵み〉のしるしの業は、人々のイエスを受け入れる心の状態と深く関わっているということを明らかにしています。

ここで、このナザレの人々を、私たち自身の心に置き換えて考えてみたらどうでしょうか。つまり、私たちは皆、神によって創造された人間である以上、わたしたちの心は、イエスにとって安住の〈故郷〉であり、また私たち自身にとっても、自分のアイデンティティーを確認する場でもあります。そして、わたしたちの真のアイデンティティーは、イエスとともにあることによって、本当の意味で確立するといえるでしょう。

ところが、そのわたしたちが、このナザレの人々のように、イエスの言葉を信じず、懐疑的に受け取って、イエスに対してつまずいてしまうなら、〈神の恵み〉は、わたしたちの中で十分効果的に働かなくなってしまいます。イエスはわたしたちの傷ついた心に入って、そこでいやしの恵みを注ぎたいと願っても、わたしたちがそれを拒絶してしまうことが、起こりうるのです。

今日の第2朗読の『使徒パウロのコリントの教会への手紙』の中で、パウロは次のように言います。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12・9-10)。

パウロは、自分を無力で惨めに感じさせる何かを抱え、それが彼にとっての〈とげ〉となり苦しんでいました。彼は、それをイエスに取り除いてくれるよう願いましたが、イエスはその願いに対して次のように答えます。

わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。(2コリント12・9)

わたしたちにとって、時としてイエスは、わたしたち自身が知ったつもりになり、それ以上信頼して理解しようとしないような〈何か〉に姿を隠してわたしたちの心にやってくることがあります。そのようなイエスは、まさにナザレの人々がつまずいたように、わたしたちには注意を向ける価値のない、無意味なものに思われるのです。しかし、そうではない、そこにこそ、わたしたちが心を開いて、受け入れるべき〈イエス〉がいらっしゃるということを、パウロの言葉と、今日の福音は示しています。

アシジの聖フランスコも、回心した当初、故郷のアシジでは家族をはじめ、人々から無理解と嘲りや罵りの言葉や態度を示されて、人気の無い場所に逃げ込んだことがありました。イエスによってその心を捉えられた者は、このように、周囲の人々からの拒絶や反対に遭うことを余儀なくされることがあります。しかし、同時に、それは自分自身の中にある、恐れや不安の原因となっている傷のうちにおられるイエス本人に、わたしたちが目を向け、信頼し、心を開いてそのイエスご自身を受け入れることを、わたしたちに促す機会でもあるのです。
わたしたちを愛し、わたしたちに新しい使命を託そうとするイエスを、ひとたび受け入るなら、フランシスコがその恵みによって奮い立たせられたとフランシスコの伝記作家が書いているように、わたしたちも恵みによって、勇気をもってイエスの道を歩むようになるのではないでしょうか。

忍耐の人は高慢な人に勝ると言われるように、神の僕〔フランシスコ〕はこのようなことは意に介さず、どんな侮辱にもひるまず、心を動かされることもなく、これらすべてを神への感謝に変えてしまいました。徳を追い求める人を悪人が迫害するのは、無駄としか言いようがありません。なぜなら、このような人は打たれれば打たれるほど、ますます強く勝利を確信するものだからです。「侮辱は高貴な魂をより強いものとする」のです。

まさしく、苦難のうちにあっても喜ぶように命じられた者は、たとえむち打たれ、鎖で縛られても、正しい意向やその決心を変えたり、キリストの群れから引き離されるようなことはありえないのです。災いを苦痛と感じさせないよう、いつもわたしたちの受ける苦しみをより価値あるものに変えてくださる神の御子こそ、苦悩からの避難所であると信じる者は、大水が襲ってきても動揺することはないのです。
〈チェラノのトマス『聖フランシスコの生涯(第一伝記)』第1巻〉※1。


※1『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、29-30頁。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?