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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第4主日〉


わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている(ヨハネ10・14)。



一匹の子羊を肩に担ぎ、羊の群れを導いて歩く〈羊飼い〉として描かれたイエスは、頼もしくも温かい救い主キリストの姿を彷彿とさせます。しかし、羊飼いは、当時のユダヤ社会ではさげすまれた職業でした。それは、牧草地を求めて巡り歩かなければならない彼らの生活スタイルでは、ユダヤ教の厳格な規則である律法を、とうてい守り切ることができなかったからです。

しかし、今日の福音(ヨハネ10・11-18)では、そうした世間からさげすまれていた羊飼いに、イエスは積極的に自分のイメージを重ねて語ります。これは、当時としては非常識な喩えであったでしょう。イエスの言う〈良い羊飼い〉の〈良い〉とは、外面的な善良さに生きることでは推し量ることの出来ないものを含んでいるように思われます。その本質は、自分の羊のことを〈心にかけている〉ことにあるからです。そして、その羊飼いの心は、自分自身の命でさえすすんで羊のために差し出すことを厭わないのです。

ところで、羊という動物は非常に臆病で、常に群れを成して仲間とともにいないとストレスを感じてしまうそうです。また、その視力は奥行きを計ることが苦手で、常に目の前の仲間のお尻に付いていくことで安心します。しかし、そのように一人きりでは迷いやすい羊にも、非常に優れた聴力があると言われています。彼らは人の声を聞き分けることが出来るのです。ところが、警戒心の強い彼らは、慣れ親しんだ声にしか反応しません。

羊飼いは一匹一匹の顔と名前を覚えています。それと同じように、イエスは羊の群れである弟子たち、つまり信者の群れの一人一人をその人の名前で呼んでくださいます。またイエスは、ちょうど羊飼いが自分の羊のそれぞれの性格、個性を熟知しているように、わたしたち一人一人のありのままの姿を完全に知ってくださっているのです。

では、わたしたちの方はどうでしょうか。わたしたちは羊がその羊飼いを〈知っている〉ように、果たしてイエスを〈知っている〉でしょうか。イエスの声にのみに反応し、それ以外の声には警戒して付き従わないほどに、常にイエスの声に耳を傾け、慣れ親しんでいるでしょうか。それとも、何か別の声の方に付いていこうとすることはないでしょうか。

イエスを〈知っている〉ということは、単なる知識の次元ではなく、そこに何かしら生き生きとしたイエスとの関係性を経験しているということなのかもしれません。アシジの聖フランシスコは、わたしたちがイエス(神)とのそのような生き生きとした交わりの関係性をもつために、どのような心持ちであることが必要か、そしてそのためにどのように祈るべきかを、〈主の祈り〉の釈義の中で次のように述べています。

「み名の尊まれんことを」とは)私たちのうちにおけるあなたについての認識が明白になりますように。それは、あなたの恵みの広さ(エフェソ3・18参照)、あなたの約束の長さ、御稜威の高さ、裁きの深さがどれほどであるかを知ることができるためです〈『主祷文についての釈義』〉※1。
「み旨の天に行われるごとく、地にも行われんことを」とは)あなたを常に思い巡らすことによって、心を尽くしてあなたを愛し、あなたを常に憧れ望むことによって、魂を尽くしてあなたを愛し、わたしたちの意向をすべてあなたに向け、万事においてあなたの栄光を求めることによって。精神を尽くしてあなたを愛し、私たちの霊魂と体のすべての力と感覚をあなたへの愛の奉仕だけに用い、それ以外のどんなことにも用いないことによって、力を尽くしてあなたを愛せますように〈『主祷文についての釈義』〉※2。


主の羊であるわたしたちは、心に刻まれたイエスのみ声に自分自身のアイデンティティーを見出すでしょう。そして、その優しいみ声は、わたしたちにイエスと同じ心待ちや態度、生き方を選ぶようにと促すことでしょう。

力を尽くして隣人を皆、あなたへの愛に導き、他人の幸福を自分のことのように喜び、他人の不幸に同情し、また、どんな人をも決して傷つけないことによって、隣人を自分のように愛せますように〈『主祷文についての釈義』〉※3。


フランシスコの祈りをとおしてみると、イエスのたとえに出てくる羊飼いと羊の関係性は、単なる羊飼いから羊への一方通行の献身的な奉仕だけではないことが分かります。むしろ、導かれる羊が羊飼いの姿に近づいて行くことを、羊飼い自身が望んでいるような、双方向的な関係性を見ることが出来ます。羊は羊飼いによって羊飼いの姿へと変えられていき、羊飼いと羊とは、ある意味で一体なのです。

ところで、このたとえの羊飼いには、この囲いに入っていない他の羊もいます。彼は、その羊をも探しに行きます。これは世の中へ宣教に出向いていくイエスと弟子たち、つまりわたしたち教会を示唆しています。この宣教は、自分自身を神と他者に差し出すこの羊飼いの姿に従うことによってしか実現しない、大きな使命です。


※1 『アシジの聖フランシスコの小品集』、庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、115-116頁。
※2 同書、117頁。
※3 同書、117-118頁。

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