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宇宙

何者かになることが求められている。
「わたしはこういう人間です。」「わたしはこういう点において貴社の役に立ちます。」ということを考えている。
わたしは役に立ち、生産的であり、どのような利益をもたらす人間であるかをアピールし、それを信じて(いるように見える)企業は採用する。

「~~大学の○○です」から、「~~会社の○○です」に変わっていく。所属する組織が変われば自己紹介も変わる。関わる人も変わる。考えることも変わる。多くのことが変わる。

私が勉強できなくても、仕事ができなくても、運動ができなくても、何もできなくても、私のことを受け入れてくれるだろうか。
私がわたしであることの核が揺れている。ぐらぐら。ばらばら。

社会の求める人物像に向けて、ぎゅうぎゅう押し込んで、いらないものを削って、研鑽して、ダイヤモンドも部分まで削ってる。もう1カラットもない。CARATなのにね。ガハハ。

将来やりたいこととかない、というかわたしの自力でできることはない。わたしの周りの人はもちろん、全世界の人が明日の死におびえることなく、将来の夢をかなえられるという希望を持てればいい、と、思っている。でもきっとそれって私じゃなくても良くて、わたしよりも優秀な人がやってくれるはずで、あれ、じゃあわたしじゃなくてもいいよね、わたしがやる意義ってないよね、わたしに意義ってないのかもね。

社会において名前のある関係はすべて代替可能だと思っているんだけど(特に恋愛と雇用)、わたしがいかに代替不可能であるかをアピールしないといけないのがしんどい。わたしでなければならない理由を見つけて、向こうにもそれを見つけてもらわなければならないのもしんどい。わたしがどれだけ資本主義に貢献できるかで測られている。

でもだからと言ってわたしが何か表現者として評価できるかといわれれば、ノーだ。わたしは天賦の才を持って生まれたわけでもなく、好きなことを継続したわけでもなく、そもそもそんなに好きなことがなかったかもしれない。

宙に浮いている。終わりが見えない。


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