酔った時に筆をとる

成人の特権。飲酒(もちろん法を犯して飲めるが)。

思いがけないことが口走ったり、意に反した行動をとったり(限度を超えるとお縄につきます)。

普段は見逃す何気ない景色であったり、感覚が浮き彫りになるような、とある小説で「機関車みたいになる」という表現があったように、言葉が感情がとめどなく溢れてくる感覚。後で見返すと恥ずかしいような事まで平気で表現してしまうほど、気持ちが脳を先走る瞬間が気持ち良い。

例えば今、目の前に4連休を目前にしたサラリーマンが電車に揺られているけども、今や通行手形となったマスクを顎に設置し、派手に噫気をする。結婚指輪をしてないから恐らく家庭ではなく、職場での不満ストレスを、口にしたであろう酒のつまみの匂いを周囲に放ちながら、赤ん坊のように口を広げて眠っている。最近刺されたであろう、痒そうな蚊の痕跡も気にすることなく後頭部を掻きながら、首のストレッチを始める。デスクワーク、辛い姿勢で行っているんだろうか。ゆっくり休んでもらいたい。


経済の歯車の1部となって3ヶ月半。ふと、自身の書いていた内容を見返してみると、書き出しでやたらと時間の経過について言及していて、突っ込みたくなる。

目の前のサラリーマンは5分経過したが、未だに腕を後頭部に回し、首の後ろをストレッチしている。反動でメガネが外れると、戻さずに腕に抱え、大きな欠伸をして頭頂部を掻きむしりながら、再び眠りにつく。

目の前の乗客が降車したことによって座席は空いたが、次が最寄り駅なので直立を選択する。

しまった、目が合ってしまったが画面を見つめることでその場をやり過ごす。再び大きな噫気をかまし、にんにくの強烈な匂いを周囲に放つ。


話が吹っ飛んでしまった(元々何の話か決まってはいないが)。



時は過ぎ去り7月最終日。

今日も箱に揺られて帰宅する。電車の狛犬ポジションに陣取り、先日同様筆をとる。酔っているからこそ書けることがあったりするし、不思議と文字が溢れストレスフリーで文章をかける(ゴールはないが)。

最近は芥川賞に類する書籍に目を通す日々が続いている。2021年前期はどうやら東日本大震災に関する作品が候補となっている傾向があるようだ。そんな中で目に止まった表現がある。


「勝手に感動される人生」


被災した人間達がどこかに抱いている感情の1例としてあげられていた。思いやりのつもりが、相手にとっては迷惑なものでしかなかったというアイロニー的表現だ。これを読んで、自分の意見を言う時にちょっと踏みとどまる時間を設けるように、意識するようになった。良かれと思ってやったことが相手からしたら迷惑なものであったら、それは思いやりではなく偽善の押しつけになりかねないある種の恐怖を強く感じたからである。

酔うと筆が進む。

これを公開するかはきっとおそらく、ギリギリまで悩むことであると思うが、最後の背中を押すのはおそらく酒なのだろうと思いながら、暗がりによって電車の窓に反射する自分自身を見つめながら文字盤を打つことを続ける。

 

読書をするようになってから、作家の偉大さを知る。彼らはメタファーとして主張を物語に乗せて創り上げることができる。そしてその作品を考察する人がいる。大抵どの本にも考察のWebサイトが存在するからだ。僕は各本を2回以上読むようにしている。1回では本質を見抜ける力がないからだ。2回以上目を通し、自分の言葉で総評を、する。その後初めて考察のサイトに辿り着くのだが、これがまた面白い。

角度が人それぞれで、読む度に視点が切り替わる。読書は人生の限界に抗う最後の手段だという話があったが、これは対抗手段を2つも、3つも増やすことと変わりない。僕は本を1冊読み終わる度に少なくとも1人分、場合によっては3人分でも5人分でも、10人分にでもなる人生を数日で過ごしたことになるのだから。そう思うと、電車の移動時間に手元に本がないことに違和感を感じるほどである。

今までなんとなく通り過ぎていただけの本屋にも、1度足を止めるようになる。スルーしていた芥川賞作品のニュースにも目を止めるようになる。

今乗っている電車では、ほぼ全員がスマホをいじっているが、ちょっと勿体ないことをしているかもしれないとか思うこともある。とは言っても、今この状況で僕は本を読まずに終わりのない文章を打っているのだが。

味気ない日常に最近光をもたらした読書という行為は、際限ない所が好きだ。例えば今日、下北沢にある古本屋に訪れたのだが、幾度も役目を終えた色褪せた書籍が山のように積まれ、次の出番を今や今かとまっていた。消耗品ではないところが、愛すべき所だ。誰かの指脂を吸収した1枚の人生が、違う人生へと伝承されていく。こんなに素敵なことは無い。最近読書を始めたやつが、なにを偉そうな全て知ったようなことを吐かしていやがるんだというご意見、ご指摘は喜んでお受けします。こんな身の程知らずのことを平気で言ってしまうほど、僕は読書に心酔したのだ。

目的が変われば、意識も変わる。

知的キャラをアピールするために始めたかもしれない。たくさんの言葉を知っている自分に酔いたかったから始めたのかもしれない。無粋なスタートではあったが今は(ちょっとはあるかもしれない)異なる。人生に得している気分が強いから、普段見逃す本に関する視覚情報には、敏感になった。


読書はしましょうってよく教師や親は言うだろうが、嘘くさいと思えてしまう。仮にもしも彼らが僕と同じように心酔しているのならば文句はないが、価値観の根底を他人に伝えることが難しいことを考えると、みんな胡散臭いということになる。いや、面倒くさいからそういうことにする。


なにか社会のアイロニーについて書くほど、僕は情報が行き届いていないからこのようなあっちこっち行く内容になるのが心底情けない。

書きたいと思っているけど書くことがないのは辛い。僕はその多くが旅行だった。自分の見たものを、聞いたことを、感じたことを思うままに書くというあの時間は意外にも心を豊かにしてくれていたのかもしれないと、今更になって、そして酔う事によって気がつく。

そのうち、1度ヒットした作品が○○2とやるように、僕も過去の旅路を書き直すかもしれない。

その時はああ、書けてよかったね、といった温かい眼差しで見守りながら読んでいただきたい。いつになるかは未定だが、どうやら(まじでおそらく)僕の文章のfanがいるらしいので近いうちになにか残したいと思う。


立って書くのは疲れたので、空いた座席に座り、しばし眠りにつきながら最寄り駅を目指すことにします。


おやすみなさい。また今度。

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