今此処でスーザン・ソンタグに再会する (5)

[こちらは「東京プライド」のメールマガジンに2011年7月から12月まで月1回連載されました。以下は2011年11月配信分。]

スーザン・ソンタグの『《キャンプ》についてのノート』 (1964) からもう少し引用しよう。

「 (前略) キャンプは部外者には近寄りにくいものだ。それは都会の少数者グループのあいだの私的な掟のようなものであり、自らと他とを区別するバッジのようなものにさえなっている。」 (ちくま学芸文庫『反解釈』1996年所収、431ページ)

「キャンプ趣味<すなわち>同性愛趣味とするのは正しくないけれども、両者のあいだに奇妙な近似と重複があることは確かである。 (中略) 同性愛者がすべてキャンプ趣味の持主だというのではない。しかし、概していえば、同性愛者はキャンプの最前衛を―そして最もはっきりした受容者を―なしている。」 (同掲書、457ページ:<>内は傍点)

『《キャンプ》についてのノート』を読んだところで、《キャンプ》がワカラナイひとにワカルことはないだろう。それでもソンタグは、《キャンプ》な空間に居合わせた人がまるでスナップ写真を何枚も撮るように、「反撥によって制約された深い共感」をもって、短い文章の断片を重ねている。写真についていえば、ある時点のある空間に在った現実を写しとった映像であっても、その場に居合わせた人ですら、映像が写しとったはずの現実も撮影の意図も、ワカラナイことはよくあることだ。

写真は、撮影者がその時点でそこに居合わせたしるしでもあるから、撮影者は完全な部外者にはなりえない。『反解釈』でソンタグが挑んでいる解釈という営みでは、解釈の対象と、解釈者を含んだ外部との境界は揺らがない。写真を撮るということは、あるいは何かについて写真を撮るのと類似のアプローチを採るということは解釈という営みにはなしえない距離をその対象ととることになる。ソンタグの言葉を借りると、「 (前略) 写真はたんなる映像 (絵画が映像であるようには) や現実の一解釈ではない。それは足跡やデス・マスクのようにひとつの痕跡、現実から直接刷り取ったあるものである。」 (『写真論』、近藤耕人訳、晶文社、1979年、156ページ)

ところが今此処にある現実を写真に撮る方法は、どうフレームに切り取るかだけでも無数にあって、にもかかわらずそのフレームに収められるのはある一定の時間でしかない。それでも「大事件はただ起こっただけではすまない、イメージ等々のものによって何度も再生されるのだ (後略) 。」 (『隠喩としての病・エイズとその隠喩』、富山太佳夫訳、みすず書房、新装版2006年、262ページ)

逆に、もしもある出来事のイメージが何度も再生されなかったら、それがいかに「大事件」であっても、その出来事そのものが想起されえないことすらある。そしてカメラが遍在し映像世界に依拠して現実を理解しようとする傾向のあるこの社会にいて、カメラが切り取らなかった方の現実にもまた、私たちは生きている。「何が起きていようと、つねに、それ以外にも起きていることがある」

たとえば、2011年3月11日以降、日本各地でデモや集会が、権力に対する異議申し立てが、いくつあっただろうか。どれだけの人が参加しただろうか。どの出来事が日本国内のマスコミを通じて映像として配信されただろうか。インターネット上の民主的なメディアを通じた映像は誰に届けられただろうか。たとえば、あなたの参加した、あるいは参加しなかった、真夏のあのパレードの映像は、どのメディアでどこまで配信されただろうか。

コンピューター・スクリーンの前で、フレームに収められた現実とも収められなかった現実とも、繋がってはいるが異なる場所で、私たちは同時に、現在完了進行形の現実の痕跡を、現実のイメージを消費している。

-----

ジャニス・チェリー
日本生まれ、超個人主義な文化育ち、2003年より神奈川県川崎市在住。呼吸するようにフェミニズムとレズビアン・アートについて思考したい。時々フェミニズムやクイア・スタディーズの勉強会などやっています。http://selfishprotein.net/cherryj/indexj.shtml

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?