ゲームとルール:林檎はどこへ転がるのか

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適当なテーブルに乗っている林檎がある。私たちがそれを見たとき、それを林檎と認識することは難しくない。もちろん、距離の問題で「多分林檎だろう」とか「トマトかも」と思うことはあるかもしれないが、そういった視覚的な障害をクリアしていれば、知識に照らして林檎と判断できる。



林檎がなぜ林檎であるかという前提を、私たちは人生の過程のどこかで習得している。厳密な文章化ができるかどうかは別として、私たちは概ね相違ない定義を共有しているはずだ。定義というのは、「それが、それであるためのルール」と換言できる。

とはいえ、林檎そのものは定義に立脚するか、と言えば、間違いなくそうではない。私たちにとって林檎である(大抵は)赤い球のようなものは、それが林檎という定義に該当することを必要としない。4+1本の動く長いものが生えた暖かくふわふわした何かが自らを「犬」と呼称する必要がないのと同じように、である。



私たちは林檎とバナナを区別する。単に必要だからだ。食べたい気分が二者で異なるとか、生産する地域が異なるとか、私たちにとって都合がいい区分を切り取って定義をつくっている。果物という括りで内包されることもあるが、それにしても都合がいいから同じ領域に入っている。品種という定義によってより細かな差異を見出すこともあるが、「林檎」くらいの粒度が必要なときに都合が悪いから、そこでは差異は無視される。扱う側の都合が悪いのだ。もちろん必要なら都合がいいので品種を持ち出す。

なればこそ、性質、クオリアに観測、干渉する時に、相対的な関係を以って私たちは定義を扱っている、と言える。存在が単独であるときに、定義というものは不要になる。

関係を構築する時、ルールは生まれる。干渉者にとって都合が良い方向への導線として敷かれるレールである。自然的であることも、人工的であることもある。



ゲームを行うときに私たちが従うルールは、どういった目的で制定されているのか。ゲームを行うため、というのは正しいが、ゲームで使う物品は、本質的にそのルールである必然性を持たない。物品はルールを要請していない。ルールという形で物品への干渉方向を定めるのは製作者である。

つまり、ゲームにおけるルールは、製作者の都合に合致するような干渉手段をプレイヤーに与えるもの、ということになる。物品とプレイヤーを紐づける手段としてのルールが、製作者の都合そのものの具現化、ということだ。ゲームにおける本質は物品ではなくルールにある。

物品はルールにとっての道具として本質を手助けする役割を担う。製作者が提供・表現したい理念は、その理解をスムーズにする物品を通してプレイヤーへ届けられる。例えば概念としての何らかの接触を表現するときに、物品は物理的な接触を通してプレイヤーへクリアな体験をもたらす。理念は体験を通してより強固にプレイヤーの記憶へ訴求する。



ゲームを体験するとき、私たちはそれを物品を通して記憶に焼き付ける。しかし、その記憶の本質は、物品との関係を規定するルールによって動く、私たちの干渉の軌跡にある。



※物品をゴールとしてルールが制作される場合も無論あるが、その場合は製作者が自然あるいは人工的に物品へ干渉した方向が製作者にとっての(他者を異にする)物品が本質であるため、そこへ向かうルールの再生産もやはりルールに本質が存在することになる。


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仙望廊

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仙望廊

カードゲーム、ボードゲームをはじめとするアナログゲームのプレイテスト/ルールマネジメント/大会運営を担う団体、仙望廊。自作ゲーム企画も進行予定。 同人ゲームのお手伝い、いたします!
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