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改めて “ギフテッド”、 その後。

前回『改めて “ギフテッド” とは。』という記事を書きましたら、じつにさまざまな声を見聞きすることになりました。少なくない方々を混乱させたり不快な気持ちにさせたりして、なんとも申し訳なく思っております。

一方で、私の言わんとすることを誤解なく読み取ってくださった方々も多く、あの長々とした記事をTwitter内でも適切に要約してくださったり解説してくださったりした方もいて、本当にありがたいと思いました。改めて、どうもありがとうございました。

最近気づいてしまったのですが、私の日本語力は義務教育修了と同時に留学してしまったためか中卒レベルで完全に止まっており、語彙力もなければ表現力も稚拙で、故に長々と説明してしまう傾向にあるのかな、、、と自己分析しているところです。

そんななか、ケイ父さんという方が、ご自身のブログで私の前回の記事を紹介&解説し、又、それをもとに現在の日本の “ギフテッド” における状況を鋭く分析してくださっていましたので、勝手ながらもこちらでぜひ紹介させていただきたく思いました。文章力まで褒めてくださって、ケイ父さん、どうもありがとうございました。

日本のギフテッドに関する素晴らしい問題提起に、考える(by ケイ父さん)

記事のなかでとくに私が「なるほど、そういうことだったのか!」と納得したのが以下の部分です。

“ギフテッドへのサービスやサポートがほぼない今の日本では、ギフテッドという概念を、子供や自分を理解するための枠組み(フレームワーク)として使っている人が非常に多いと思います。かくいう我が家もその通りで、我が家にとっても結局のところ、ギフテッドという概念の最大の価値は、子供を理解するための有効なフレームワークとしての価値でした。” 

確かに私も得体の知れない息子を理解するための “枠組み(フレームワーク)” として “ギフテッド” という概念を当初使っていました。それが、アメリカ現地でギフテッド教育を経験&勉強するたびにどんどん覆されていった、ということであり、ある意味ショックでもあったのです。

又、ケイ父さんが分析されていますように、日本とアメリカとの文化や社会、習慣や考え方、教育システム、教育そのものに対するアプローチの違い(例えば “横並び” や “足並み揃えて” などという考え方の有無)から、“仮にギフテッドというものの本質が日米で全く変わらなかったとしても、アメリカと教育や文化の背景が全く違う日本においては、ギフテッドが生きづらさと強く結びつく可能性はあるのではないか” という部分には「まさに!」と強く同意しました。

それを私なりに表したのが↓こちらです。

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日本でのこの「小さ過ぎるふつう枠」を思うと、アメリカでは実証されにくいギフテッドの生きづらさも、”日本では” という条件で実証できるかもしれません。わかりませんが、今後本格的に始まるであろう日本でのギフテッド研究に期待したいところです。

ケイ父さんも汲みとってくださったように、私の真意は「ギフテッドとは優秀児/才能児なのだ!」と主張することではありませんでした。専門研究分野を問わず、“ギフテッド” にまつわるすべての研究者や専門家らが集うアメリカの学会 National Association for Gifted Children (NAGC) でも、Redefining Giftedness for a New Century: Shifting the Paradigm(新世紀におけるギフテッドネスの概念の見直し:パラダイムシフト)のなかで、「ギフテッド個人とは一つ以上の分野で高い素質を備え持った者もしくは素晴らしい功績をおさめている者」と まず定義されていますから、その高いポテンシャル/能力がギフテッドの基本条件であることをスルーしてはならない、と伝えたかったのです。その基本のキの部分が日本では軽視されつつあるように私からは見えたからです。

「ギフテッド=非同期発達」とする研究グループ、Columbus groupでも、その基本の部分は同じです。

“Giftedness is asynchronous development in which advanced cognitive abilities and heightened intensity combine to create inner experiences and awareness that are qualitatively different from the norm. This asynchrony increases with higher intellectual capacity. The uniqueness of the gifted renders them particularly vulnerable and requires modifications in parenting, teaching, and counseling in order for them to develop optimally.”

又、昨年11月の講演会でもお話させていただきましたが、アメリカでのギフテッドフテッドプログラムも質はピンキリであり、財政難に苦しむ州や学区ではプログラムを廃止しているところも多いです。(教育において、ギフテッドプログラムがまず一番にカットされるのです。賢い子たちには特別な配慮は要らないだろう、賢いのだから自力でなんとかしていくだろう、等々の理由で。)ギフテッド選定やプログラム自体を義務付けていない州もあります。

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ギフテッドプログラムが日本でいうところの特進コースや英才プログラムとして機能している学校も数多くあります。教育熱が過激な地域、例えばカリフォルニア州のベイエリアやニューヨーク市などは、例外もあるでしょうが、ギフテッドプログラムが日本のギフテッド界隈の皆さんが想像するものとはかけ離れたものとして存在していたりするのです。生徒のアカデミック・ニーズを満たしつつ、心理的な配慮やサポート、カウンセリング、SSTなどもしてくれる夢のようなギフテッドプログラムは、ギフテッド教育先進国アメリカでも残念ながらほとんどありません。(2e特化の学校なら期待できるかも?)

ですから、ギフテッド教育が充実してるはずのアメリカに暮らしていながらも、我が子に合う教育や環境を求めて四苦八苦されていた あーちゃんママさんのような方がいるわけです。我が家もその例外ではありません。決して少なくない方々がホームスクールを選ばれているのも、そのような背景があるからです。

以上、前回の記事の補足であったのに、また長々と書いてしまいました、、、

最後に「ギフテッドチャイルドとは、アカデミックな面で適切な配慮や環境がないと困り感や問題行動が出る子のことだとしたら、一般的なアカデミック環境に適応している子はギフテッドじゃないということになるのだろうか」という質問をいただいたので、それに答えて今日は終わりにしたいと思います。

一般的なアカデミック環境に適応しているように見えても、じつは満足していないギフテッドもいると思います。ただ日本の場合、塾や習い事などが充実していますから、アカデミック・ニーズやクリエイティブ・ニーズは学校外でも補えてしまえるし、仮にアカデミック的には退屈していても、部活動や生徒会活動、交友関係が充実している等、アカデミック外の学校活動で満足しているギフテッドの子達は、そちらの部分があるから楽しく学校に行ける=適応できている、ということなのだと思います。つまり、ニーズはどこかで満たされている、と考えられると思います。

慣れないTwitterでもつぶやきましたが、ギフテッド教育の「才能/能力 開発!」のイメージで引かれる方も日本には数多くいるかもしれません。でもギフテッド教育とは、本来、ギフテッドの生徒それぞれのアカデミック・ニーズやクリエイティブ・ニーズを満たすためのものであり、生徒達の心の安定(Well-being)にも繋がる教育なのです。喉がカラカラな子に水を与えるイメージですよ。とくにレンズーリ教授らのSEMは「好き」こそが伸ばすべき才能と考える すべての生徒のための拡充教育/エンリッチメント教育で、私はその魅力の虜となっております。

前回の記事を出すことで微妙な一石を投じてしまいましたが、ケイ父さんをはじめ、多くの方々に真剣に受けとめていただき、感謝でいっぱいです。

ありがとうございました。



References

National Association for Gifted Children. (2019). Asynchronous Development. Retrieved from
https://www.nagc.org/resources-publications/resources/social-emotional-issues/asynchronous-development

National Association for Gifted Children. (2010). Redefining Giftedness for a New Century: Shifting the Paradigm. Retrieved from
http://www.nagc.org/sites/default/files/Position%20Statement/Redefining%20Giftedness%20for%20a%20New%20Century.pdf




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