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改めて “ギフテッド“とは。

大学院の春学期も始まり、課題に集中すべきときなのですが、今日は少々サボってこちらを書くことにしました。ちなみにサボりは大得意です。

ギフテッドに関して、あちこちでいろいろな見解を目/耳にし、とくに日本の状況など少しずつ勉強していますが、最近また実感するのが “ギフテッド” のクリスマス化現象です。

このクリスマス化現象に関しては、3年ほど前に一度子育てブログのほうでちらっと書きました。日米両国に片足ずつ突っ込んでギフテッド子育て&ギフテッド教育を実践したり学んだりしていると、1957年のスプートニク・ショックから本格化されたアメリカのギフテッド教育&そのプログラム選定基準を考えるうえで生まれた “ギフテッド” の概念が、日本に浸透していく過程でクリスマス化され、日本独自のものに生まれ変わっていくのを、国内でもなく、でも完全に海外でもない “第3の地点” から見るようになります。(日本在住でも、子どもを日本の学校にやってないと、どうしても外部から日本を見ることになってしまうのです。)

クリスマス化現象自体は自然な流れでありましょう。日本の寿司が海を渡る過程でクリスマス化され、日本人からしたら微妙な sushi がスーパーに並び、「日本の寿司」として現地の皆さんに認知され満喫されていることなど “ふつう” であり “よくあること” です。「日本のラーメン」をうたった熱々の醤油ラーメンに ぶつ切りのきゅうりが もりっとのっかっていたときは、さすがに「これは違う…」と不安になりましたし、またそれが驚くほど不味かったので理不尽な気持ちでいっぱいになりましたが、それでも、まあ、これもクリスマス化現象ということで受けとめていけますよね。

故に “ギフテッド” という概念が日本独自の発展を遂げること自体は自然で、結果的に日本在住の子ども達がそれぞれ健やかに成長できるような環境が整えさえすれば、クリスマス化されてもそれは問題のないこと、さらに言えば良いことなのだと私も思っているのです。

私のいる状況は、アメリカのギフテッドという概念が日本でぐるぐる〜っと洗濯され、日本式の概念に変換されていく様子がよく見える “第3地点” だと思います。日本の地方都市在住ですが、息子の教育を幼少期よりアメリカの教育システムのなかで受けさせてきたため、日々の暮らしは日本、文化教育的基盤はアメリカ、交友関係は半々、というサードカルチャー的な状況であり、どこの国にも文化にも帰属意識がない宙ぶらりんな感じではあるのですが、だからこそギフテッドに関してはイヤでも日米両国の状況が同時に見え、複雑かつ微妙な立場でもあるという…

どちらをも尊重していても、ふと、きゅうりラーメンを食べたときのような思いを抱き、「そうなんだけど、なんかそうじゃない…」と感じるときもあることは正直否めません。

ギフテッドを非同期発達として捉えると、凸凹はいろいろな意味でふさわしいと思っています。ただ、ギフテッド子育てやギフテッド教育とは全く無関係な暮らしを送っている大多数のアメリカ在住の(日本人を含む)皆さんは、”ギフテッド” と聞くとパーフェクトな優等生や才能児をイメージされるので、「ギフテッド=非同期発達/凸凹」「ギフテッド=生きづらい」「ギフテッド=OEで大変」というイメージが先行してしまってるように見える日本の現状に少し違和感を覚えてしまうのです。うまく言えないんですが…

もしかしたら私が見ているのは日本でも特有なコミュニティなのかもしれません。もしかして日本でのギフテッドにおける共通認識は「天才」あるいは「アスペルガー」なのかもしれません。わかりません。

いずれにしても、”私が知る限定された日本” だけかもしれませんが、”ギフテッド” がここまで心理学的観念でとらえられている国もめずらしいなと思うのです。同じアジアの中国や韓国、台湾、シンガポールでも「ギフテッド=優秀児/才能児」です。シンガポールなどは「ギフテッド=スーパー・エリート」かもしれません。

もともとは「能力的に凸の子達を(手っ取り早く)見つけ出して伸ばそう!」ということで始まったギフテッド教育ですから、アメリカのギフテッドプログラムは現在でも能力やポテンシャルの高い子達を選んで入れているのが大半です。非同期発達やOEなどの心理学的な要素は選定のプロセスではチェックされず、そこまでサポートが行き届いているプログラムも(うたってはいても)期待するほどないようにも感じます。ギフテッドプログラムというのは本来ギフテッドの子達のアカデミック・ニーズやクリエイティブ・ニーズにこたえる場であり、ソーシャル&エモーショナル・ニーズは別件です。(2eの学校だと心理的なサポートも手厚いようですが。)

日本で一人歩きしてしまっているように感じるギフテッドの心理学における特徴を下方にまとめてみました。私の息子も苦しんできましたし、私が知る範囲でのアメリカでも心理学の専門色が強いコミュニティではよく聞かれることです。例えば「非同期発達こそがギフテッドだ」と唱える研究者らもいます。ただ、今の日本はバランスが悪いと思うのです。こちらでも紹介しましたが、心理学におけるギフテッド研究の第一人者Dr. Webbらの著書2冊『ギフティッドその誤診と重複診断』『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』の邦訳書が出たことによって、ある意味、アメリカでは一般的に広く認知されていないほうの概念が先に渡来してしまった、という感じがします。

そして、世界で一般的なほうの共通概念「ギフテッド=優秀児/才能児」が置いてきぼりにされているような気もして、故に “バランスが悪い” と思うわけです。

日本でも問題なく才能を伸ばしていける “ギフテッドかもしれない” 優秀児の保護者らは、我が子がギフテッドか否かなどと問う必要がありません。才能を伸ばす系の情報だったら国内に掃いて捨てるほどあるので、アメリカのギフテッド教育情報もとくに要らないでしょう。日本に不足していたのは、ポテンシャルが人一倍高いはずなのに、何故かうまくやっていけない困り感のある子ども達の情報で、故にDr. Webbらの著書の訳書は物凄く貴重なのです。ただ、「ギフテッド=優秀児/才能児」という基礎概念、共通認識は、やはり根底になくてはならないものだと思います。

アメリカでギフテッド教育を受けさせようとすると、まず大抵の場合、アンダーアチーバーでは既存のギフテッドプログラムには入れません。高IQを証明するものやギフテッド認定があれば認めてくれるプログラムもありますが、ハイアチーバー(=ここでは個々のギフテッドプログラムが求める基準値以上のテストスコアや功績がある者)でないと門前払いするプログラムも想像以上に多いです。

又、ギフテッド教育教師は、皆、Dr. Webbのようにギフテッドの生きづらさを深く理解されてる方ばかりだと思っていましたが、これもまたとくにそういうわけでもなく、困り感あるギフテッドに寛大な環境という感じでもありません。(もちろん例外はあると思います。)前述しましたが、ギフテッドプログラムとは、ギフテッドの子達のアカデミック・ニーズやクリエイティブ・ニーズを満たすために設けられた場所なため、凸凹やOEで生きづらさを感じているギフテッド達は、心理や医療など、教育とは別のサポート機関で(もしくはサポーターから)支援なり処置(treatment)を受けているように思います。

変わってはきていますが、ギフテッド教育の門は今でも基本 “優秀もしくは高いポテンシャルがあると認められた生徒” にしか開かれていません。ただ、アメリカには教育オプションが日本より多くありますから、ギフテッドプログラムに入れなくても、我が子に適した良い教育を見つけやすいと思います。又、ギフテッドプログラムの選定基準さえ満たしてしまえば(要はハイアチーバーであれば)(そしてプログラムが手厚ければ)(and/or 教育にお金をかけられれば)あらゆるギフテッド教育プログラミングが受けらるのも事実です。

しつこくなりますが

Dr. Webbらの著書を読むとき、もともとアメリカには「ギフテッド=優秀児/才能児」という概念が主流の土壌があり、その構図は基本的にはまだ崩されていない、ということを忘れてはいけないと思います。息子がギフテッド認定されたときに受けた説明や、Johns Hopkins Center for Talented Youth (CTY) 、私立オンラインスクールのギフテッドプログラムでの個人的な教育経験においても、又、UConnの修士プログラムにおいても、アメリカでの一般的な共通概念、共通認識は「ギフテッド=優秀児/才能児」です。

「いや、ギフテッドというのはそれだけではない」というカウンター勢力(=ギフテッドの子達からするとサポーティング勢力)が、例えば心理学者のDr. WebbだったりDr. Silvermanだったり、ギフテッドや2eの子育てに苦悩している保護者達だったわけで、そんなDr. Webbらの声が訳書により日本で広まることは素晴らしいことに間違いありません。でもそれは「ギフテッド=優秀児/才能児」という共通認識が前提としてあって初めて生まれたものであり、それ単体では成り立たないものだと思うのです。つまり、それ単体だと、現在のアカデミアにおいては、それはギフテッドではない何か別モノと位置付けられるだろうということです。(例えば「それは特別支援教育の管轄ではないのか?」など。)

例えばDr. Webbらの主張ですが、それに異議反論を唱えるカウンターグループの声が心理学界のなかでもアメリカではあるわけです。(例えば「生きづらさはギフテッドを定義する要素にはなりえない」など。)でも日本では「そうだそうだ!」という声に押されて「ギフテッド=生きづらい」という概念が「ギフテッド=優秀児/才能児」を飛び越えて定説になりそうな勢いです。非同期発達もまだ実証はされてないので、アカデミアでは「〇〇研究グループの説」という位置付けです。非同期発達も見られず、すべての分野において驚異的にハイアチーバーで、PGと認定されたハッピーなグローバリー・ギフテッド(globally gifted)も実際存在する事実を私達は自己判断でスルーしたり否定してはいけないと思います。

UConnのレンズーリ教授らの研究グループでは、ギフテッド教育の研究機関だからでしょうが、「ギフテッド=bright kids(賢い子達)」という共通認識のもと、より効果的に、より低コストで、すべての生徒が才能伸長教育を公立校で受けられるよう研究開発がなされています。そこにギフテッドの子達の “生きづらさ” という要素は加味されていません。ギフテッドネスと生きづらさの相関関係が実証されてないからです。

それでも「すべての子に才能を伸ばす教育機会を」とSEM/全校拡充モデルを開発された背景には、「ギフテッド=優秀児/才能児」という概念が(今よりもっと)根強い社会があったからで、逆に言うと、その共通概念がなかったら、レンズーリ教授らも「一部の子達だけしか才能を伸ばせないのはおかしい」「すべての子に伸ばすべき凸がある」と思わなかっただろうし、SEMも開発される必要性がなかったと思うのですね。

Dr. Webbらの著書2冊から、ギフテッドの子育てにおけるガイドラインやヒントを得ることは、私達にとっても子ども達にとってもかけがえのないプラスです。一方で、本と目の前の我が子だけで「ギフテッドというものは非同期発達でOEもあり生きづらいものだ」と決めつけてしまうのはどうかと思うのです。「非同期発達もOEもなく超優秀で楽しそうに学校に行けてるあの子はギフテッドではない」と言い換えることができてしまうからですが、そういうギフテッドもアメリカには結構沢山いるし、日本にも同じ割合で存在しているはずなのです。声をあげる必要がないだけで。

ギフテッドの子達も、ギフテッドである前に個人であり、性格や気質も生まれ育った環境も違うため十人十色です。故に生きづらさというのにも個人差というのがあるでしょう。「ギフテッド=生きづらい」で括り過ぎてしまうと、ギフテッドは生きづらくないといけないような流れができてしまいそうですし、人生を謳歌しているギフテッドの親を追いつめてもしまいそうで、怖いです。

又、ギフテッドか否かを見極められる専門家が不在な日本で、本当は2eかもしれないのに「うちの子はギフテッドだ」と突っ走るのも非常に危険だと思います。じゃあどうすればいいのか、と言われそうですが、正直なところわかりませんけれども、冷静さをもって、常に多角的な観点からバランスよく我が子を見つめることが今できる最大限のことなんではないかと思ってやみません。

ギフテッド=困り感

適した学習環境に置かれているギフテッドの場合、困り感や問題行動は解消され、学業(もしくはその個人の得意分野)においても最高のパフォーマンスを見せることが実証報告されています。それでも解消されない場合は、環境がじつは適していないか、体調不良、もしくは心身の疾患や障害が隠れている場合があります。(2eは、知的障害以外の障害を併せ持つギフテッドです。発達障害、学習障害、身体障害、精神疾患などがあります。)

ギフテッド=非同期発達もしくは凸凹

「ギフテッド=非同期発達」と定義する研究者もいますが、非同期発達ではないギフテッドもいますし、凸凸だったり凸口なギフテッドもいます。みんなと同じようにできないといけない日本の学校では、「人並みにできない=凹」とされやすい背景もあり、誤診も多くなりそうです。アメリカだとギフテッドなのに、日本では2eと判断されることもあるかもしれません。ちなみに全体的に凸凹な息子は、日本でもASDやADHDという診断はくだされず、アメリカでも単純にギフテッドだと判断されました。いずれにしても非同期発達はアカデミアにおいてまだ議論されている概念です。

ギフテッド=OE

過敏性/強烈な感性/深さは、すでに実証済みのギフテッドの8つの特徴のうちひとつですが、それをOEと見做さない研究者もいます。OEそのものに懐疑的な教育学者もいます。その教育学者は、心理学者の唱えるOEをギフテッドの特徴として認めていませんが、仮にギフテッドにOEがあるとしたら知的OEだろう、という立場をとっています。ちなみにOEという言葉を聞いたこともないベテランのギフテッド教育教師もいます。(研究者は、賛同していなくても、さすがに皆さんご存知なようです。)

ギフテッド=生きづらい

アメリカでも生きづらさを感じているギフテッドは多く存在します。故にDr. Webbらの研究が始まったのだし、SENGも発足されたわけです。とくに『A Parent’s Guide to Gifted Children(わが子がギフティッドかもしれないと思ったら)』がギフテッドの子育てバイブルとして不動の地位にあるのも、生きづらさを抱える子どもを育てるのに苦悩している保護者が沢山いるからでありましょう。ただ、ギフテッドであるから生きづらい、というのは実証はされておらず、現場のギフテッド教育教師がギフテッドの子達の生きづらさを認識しているかどうかは微妙なところです。

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生きづらさに関しては、ギフテッドではない私も47年間感じており、必ずしもギフテッドの専売特許ではないのではないかと個人的には感じています。とくに日本は、さまざまなマイノリティが生きづらいほうの国だと経験的にも思います。ギフテッドはマイノリティですから、日本ではきっと生きづらいでしょう。一方で、日本では生きやすく、海外で生きづらさを感じる日本人のギフテッドもいるわけです。これはもう個人の感覚なのかもしれません。感覚というのは実証しにくいもののような気がしています。

最後になりますが、日米両国に片足をそれぞれ突っ込んで子育てしている私が感じる「ギフテッドチャイルドとは」を紹介します。米連邦政府やNAGCの定義に少し説明をつけ加えました。クリエイティブ・ニーズというのもつけ加えたいところです。

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今回このnoteを書くにあたり、問題提起してくださったりフィードバックをくださったMさんとあーちゃんママさん、ありがとうございました。。

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