いま、そして未来 - ホーヴェ演出「ガラスの動物園」を巡って

20221001-02
ガラスの動物園
出演:イザベル・ユペール、ジュスティーヌ・バシュレ、アントワーヌ・レナール、シリル・ゲイユ
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
新国立劇場中劇場

トムの独白に始まり、トムの独白に終わる。
T.ウイリアムズの名作群の中でも群を抜いて私小説的色合いが濃い作品だ。

すべては主人公にして語り部であるトムの追憶として進行し、そこに登場するアマンダ・ローラ・ジムは、いずれも記憶の幻影に過ぎない類型化されたマネキンである。
若き日の追憶を寄り処に生きるアマンダは、ウイリアムズ自身の影とも言えるブランチ・デュボアの延長線上にあり、作者とその母の屈折した関係が伺える。
だが軸をなすのは姉ローラに寄せるトムの思慕であり、破滅的な生涯を送りながらも常に障害者の姉を慕い続けたウイリアムズ自身の痛切な姿がそこに重なる。
「その蝋燭を消してくれ」トムのこの幕切れの独白に、作者の思いと痛みを集約させて幕が降りるのだ。

ウイリアムズ戯曲に共通する特異な人物像をこの追憶劇の枠組みに収めることは難しい。私の観劇歴でも良い出来の舞台は多くはない。
今のところ2011年および2018年のD.ジャンヌトー演出作品が抜きん出ている。視覚的な美が作品の本質を完璧に突いた傑作舞台であった。

今回のホーヴェ演出の舞台、美術・衣装・役者のアクションともども、今日の観点ではオーソドックスの範疇に入ると言えるだろう。
しかし構築された舞台は作品の本質を完全に踏み越えた、あるいは読み替えたと言える大胆なものであった。

今回の上演時間は休憩なしの2時間であったが、これは演出家がオリジナルの科白を大幅にカットしたことによるもので、これまでの観劇記録の最短である。
それも単純なカットではなく、明らかに戯曲オリジナルのキャラクターを別物と言って良いほど再造型することを目的としたものと思われる。

その最大のポイントはトムの独白の大幅なカットだ。

トムの独白こそがこの追憶の芝居・ウイリアムズの痛々しい自己投影の本質を成しているのだが、この大幅なカットによって作品そのものが追憶劇からリアルタイム劇に近づいた。
トムの時間軸が「いま現在」にシフトしたことで、トムの人物像自体が過去の記憶の痛みに悶える青年ではなく、閉じこもった空間から「今まさに」翔び立とうとする青年に変質したのだ。

記憶の中のマネキンに過ぎなかった各キャラクターたちも、当然ながらいま目の前に実在している存在感を持って再造型されている。

最も顕著なのはローラの造型だろう。
これまでのどの上演でも、華奢で弱々しく外の世界に出ることを恐れる少女として描かれたこのヒロイン。
この上演では低い声に肉感的なイメージの強いレナールによって、常に寝そべってばかりの現代の引きこもり少女のように描かれている。

そしてこの演出コンセプトの最大の懸案がアマンダであったであろうことは想像に難くない。
ウイリアムズがこの特異なキャラクターに与えた膨大な科白は「トムの記憶である」と割り切ることで、辛うじて作品が成立するからだ。この作品の上演の難しさは恐らくここにある。

この難問に対するホーヴェの回答は「家族の愛」だった。

息子と娘をただひたすら愛する母。
自らの華やかな過去を子どもたちに分け与えんと苦闘する母。
できの悪い二人の子供の未来のため戦う母。
ウイリアムズの与えた科白から普遍的な母性像を造型するとは、何たる離れ業。
名女優イザベル・ユペールゆえに可能だったことだろう。
時折客席から笑いが漏れたアクションは息抜きではない。
ウイリアムズの「毒」を打ち消し「母」の姿を造型するために必要なものなのだ。
そして月明かりのシーンでのトムとアマンダの対話。
この母子のシーンがこれほどの切なさをもって迫ってきたことはこれまで無かった。
近親相姦的な危うさを感じさせたトムとローラの包容もこの演出コンセプトだからこそ説得力がある。

ローラとジムのロックダンスシーンの鮮烈さ。
閉じこもった若者の束の間の自己開放。
だがジムは彼女を外の世界に引っ張り出すことはできなかった。
ローラはまた元の世界に戻っていく。

かたや家族を振り切って外界に飛び出したトムの独白のフィナーレ。
「その蝋燭を消してくれ」幕切れでトムが懇願するも蝋燭の炎は消されなかった。
トムが外の世界に飛び出しても、姉と母は「いま」を生き続けているのだ。
それもトムへの愛情を途切れさせることなく。
「鳥よ私を連れていって 過去の国に帰ろう」
バルバラの切々たる唄声が響くうちに幕が降りた。

トムとローラは未来を行きていけるのだろうか?その答えは私達に委ねられた。
この舞台のトムとローラは「いま」を生きる私達の姿そのものなのだから。


この作品がこれほど普遍的な価値を持つ作品として成立し得たことは驚くべきことだろう。それも恐るべき完成度をもって。
だがそこにテネシー・ウイリアムズの美はあったか?

ホーヴェの恐るべき力業に感服しつつも、割り切れない気持ちを持って新国立劇場を後にした。

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