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正面の写真を載せるということ

むかし、高校の美術の時間に自画像を描く回があった。手鏡が配られて、鉛筆で描いていく。思春期のころだ。自分の顔を見て、それを写し取るのは、はっきり言って嫌だった。顔を見たくなかった。鏡をあまり見ずに描いた。

正面を向いているはずの絵なのに、全く正面から向き合っていない絵になった。目がこちらを向いていなかった。

他の人の絵を見ると、それぞれに違っていた。横を向く人、小さく描く人、斜めに描く人、半分暗くする人、何かに仮託して描く人、動物に似せてふざける人。

一番目を引いたのは、正面からこっちを向く、表情のアップだった。目が生きていた。皆の目線は、張り出された廊下のたった一つの絵に集まった。もっともシンプルなのに、もっとも重力を持っていた。

その絵に吸い寄せられる自分を自覚しながらも、私はなぜそうした引力があるのかという問いに向き合おうとはしてこなかった。

どの漫画を読むか決めるとき、直感的な決め手は顔だ。主人公の顔を、正面から、アップで描けるかどうか。奇妙に感じるかもしれないが、決定的に重要だと考えている。

第1巻の表紙に主人公の顔が「描けている」作品には、ハズレがないように感じる。作者の決意が込められているからだ。読者から一番見えやすいところに、物語の主人公の顔を正面からバンっと載せる。

当然、表紙がダメなら本は売れない。だから、誘惑が生じる。「ほかの人物も入れよう」「横顔が得意だから、横顔にしよう」「主人公じゃない方がいいかも」「表情よりも風景の方が得意なんだよな」……

でも、そういう誘惑に負けるようでは、作者の心がダメだ。一番シビアな評価が下される場所に、嘘偽りない本音を晒さなければ、その時点で負けている。

フェイスブックでもツイッターでも、自分の写真をアイコンにすることは嫌だ。皆の目につくところに、自分自身を載せる。正面から、向き合う目線を載せる。怖い。逃げようがないからだ。

私は、その怖さに対峙しようとしてこなかった。

物事に当たるとき、正面から向き合ってきただろうか。半端に笑って、やり過ごそうと思ってこなかったか。やりたいことをやりたいといい、その実現に尽力したか。私は、一人の個として立っていない。

そのことに気づいて、フェイスブックとツイッターの写真を自分の正面写真にした。相手と向き合う目線にした。かなり反応があった。「アイコンが写真になってる」「こっちを向いてる」「写真を載せたね」

私はずっと逃げていたのだと気づいた。顔の見えない写真を使いつづけ、自分を相手に晒さずに生きてきた。

(『ブルー・ジャイアント』)

正面の写真を載せることは、自分から逃げないという決意だ。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。