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苦しまないようにするのではなく、苦しみ方を教える

好きな物語は、主人公が自身のもっとも弱い部分に立ち向かうものだ。

映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を見た。主人公は小学生。アスペルガー症候群で、環境からの刺激に敏感だ。他人の咀嚼音、トラックのエンジン音、喋り声、地面の振動。全てが知覚に襲いかかってくる。タンバリンで音を鳴らし続けなければ、外を歩くことさえできない。

他人とかかわるのが怖い。外を出歩くのが怖い。ブランコに乗るのさえ怖い。

父親はそんな彼のために、一緒に外に出て探検する遊びをしていた。何かを突き詰めるのが好きだから、父親は謎を用意して外出して解かせる遊びをした。息子が社会に出て不自由しないように──。

2001年9月11日。主人公は学校から帰り、受話器が鳴るのを目撃する。電話は苦手だ。鳴り続ける電話に出られない。ピーと音がなり、留守電に切り替わる。

「いるのか、そこに」

父親の声がした。それでも出られない。「いるのか、そこに」。言葉は続く。それでも出られない。「いるのか、そこに」。9回続いた。そして、途切れた。

不審に思ってテレビをつけると、ビルに飛行機が突っ込み、倒壊するさまが流れた。主人公は声にならない声をあげ、地面に突っ伏した。

主人公は父親が死んだことを受け止められない。父親の残した痕跡を探し続ける。苦手だけど、外に出て400人もの人に会う。苦手だけど、地下鉄に乗る。苦手だけど、自分のことを喋ってみる。苦手だけど、父親が何かを残したはずだから、父の鍵をもってその何かを探し求める。

結末がどうなるかは、映画を見て確認してほしい

主人公はそのままなら、家の外に出なかったはずだ。外に連れ出してくれる父親がいなくなったのだから。父の死を受け入れられないまま、家に閉じこもってもよかった。

しかし外に出る。その不自然さを説明するため、脚本は緻密に構成される。前段として「父との探検」を置き、「父の死」で変わらなければならない枷を用意し、父の死後に「形見としての鍵」に出合わせる。そうしてようやく、家の外で知らない人と話すのだ。

彼にとっては、すさまじい試練だ。普段しないことをするには、それだけの熱量がなければいけない。苦しんで、苦しんで、成長する。

物事に取り組んでいけば、どこかの時点で過去の自分を拡張する必要がある。それは過去の自分の否定で、新しい自分の誕生だ。苦しまないわけはない。

最近私の周りには、それを支援する人がいる。私が深刻に苦しむと、違う視点を提供してくれる。その体験を受容して、少ない回数で血肉化することを助けてくれる。私はその視点を身につけて、またひとつ自分を拡張していく。

彼らに一貫するのは「苦しむな」という態度ではない。苦しまないように、状況を整えようとするのではない。いつかはかならず苦しむのだから、早い段階で経験してしまった方がいいと思っている。よりよい苦しみ方を教えてくれている。

その人が苦しまないようにするのではなく、苦しみ方を学んでもらうために、周りの人が援助する。先達には、この姿勢が求められるのだと思う。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。