3. 使役

 日曜日。
 天気も良く、風は爽やかだ。
 こんな日は、日照雨(そばえ)とピクニックと洒落込みたい。
 無理だけど。

「セ、清明(きよあき)くん!」
 一瞬迷うの、やめてくれないかな。
「あー、遅くなって、ごめん」
「いいの、私もさっき来たとこだから」
 まるで、デートの待ち合わせのお決まりのセリフだ。
 霧恵もそれに気付いたのか、少しだけ顔が赤くなった。
「い、行こうか」
 ぎこちなく笑いながら、霧恵が言った。俺も、小さく頷きながら、案内する霧恵について行く。

 霧恵は、ワンピースにパンツを重ね、薄いカーディガンを羽織っていた。髪には、カラフルなピン留め。靴はスニーカーと、割とカジュアルな服装だった。
(そうか、これが人間の女の姿か)
 妙に感心してしまった。
普段、白い女性とばかり話しているからか、霧恵の格好が、とても鮮やかに映る。

 しばらく歩き、突然、霧恵が立ち止まった。
 俺は急には止まれずに、霧恵にぶつかってしまった。
 それからまた、変に感動してしまい、「ぶつかれた」と思わず声に出してしまっていた。
「え?」
 いぶかしげに振り向いた霧恵に、何でもない、とごまかした。
「ここだよ」
 霧恵が案内したのは、大きな川に渡してある古い橋だった。
 軽く辺りを見渡すと、橋の根元、川幅の中央付近で、苦しそうにもがいている犬がいた。
 ただ、犬は半透明で、明らかに生きてはいない。
「あれか、小さい、茶色い豆柴」
 俺が指さすと、見えない霧恵は、一生懸命目を凝らしていた。
「どこ?」
「あの、橋の根元。川の真ん中」
 見えないのに、それでも見ようと身を乗り出し、俺の腕に体を押し付けていることにも気付いていないようだ。
(柔らかい……)
「霧恵、近い」
 はっとして、霧恵は慌てて体を離した。
 肉体が在る、ということが恨めしい。
 日照雨が欲している訳でもないのに、勝手にそう思う。
「どんな様子?」
 諦めて、俺に犬の様子を聞いて来た。
 犬はまだ仔犬で、川の流れに逆らうように必死にもがいている。
「苦しそう、溺れてるみたい」
「ああ、マメ太……」
 顔を手で覆いながら、霧恵は泣いていた。
 「豆柴」だから、「マメ太」? ベタベタだな。

 あの日、霧恵が俺にお願いしたいこと、というのは、このマメ太のことだった。
「毎晩、夢に出てきて、辛そうな声で鳴いているの。まだ川の水が引いてなかったのに、私が散歩なんて行かせたから……」
 前日の大雨のせいで川が増水していて、足を滑らせた霧恵が、リードを離してしまい、仔犬だったマメ太は、あっという間に川に流されてしまったらしい。
「ちゃんと、供養してあげたい。お願い、セ、清明くん! 助けて欲しいの」
 懇願する霧恵に押し負けてしまい、俺は犬の供養のために、休日を潰すことになった。

「……で、まさか、これは……」
 霧恵は、手を合わせて俺を拝んでいる。
 行け、ってことだな?
 パーカーもジーンズも出来るだけめくりながら、この場に居ない大雅(たいが)を恨んだ。
 「やってやれよ」と言っておきながら、自分はライブがある、とか言って来ない。
 全く、無責任な親友だ。

 春とは言え、まだ寒く、水温も低い。
 服をめくった甲斐もなく、川は思った以上に深く、腰の辺りまで水の中だ。
(早く終わらせよう)
 さぶざぶと、川の真ん中を目指していた時、コケを踏んだらしく、盛大に転んでしまった。
(や、ば……)
 遠くから、霧恵が叫んだような気がしたが、すぐに聞こえなくなった。
 靴を履いておくべきだった、と反省しながら、意外と流れが早い川の中に沈んでいく。
 息も出来ない、目も開けられない。
 けれど、
 ちりん、と
 音がして、反射的に目を開けた。
 まるで、時間が止まったかのような感覚。
 そして、また、
 ちりん、と音がした。
 ほとんど考えずに、「それ」を掴み、再び激しい流れに飲み込まれていく。

 流されながら、俺は日照雨ばかりを思い出していた。
 ああ、日照雨、日照雨。
 会いたい……。

 ——日照雨っ‼︎‼︎

『きよあき さま』
 ——日照雨?
 俺の目の前には、日照雨が居て、川の流れをもろともせずに佇んでいた。
『わたくしに、つかまってくださいませ』
 つ、「捕まれ」ったって……
(お前……)
『だいじょうぶ です。わたくしを、しんじてください』
 力強く、けれど優しい雨が降る。
 俺は日照雨にしがみつき、彼女は驚くほどの力で俺を引き上げながら泳いだ。

 岸に着き、二人でむせながら、川から上がる。
「日照雨、日照雨……お前、なぜ……」
 息も絶え絶えに尋ねながら日照雨を見ると、いつもより肌に赤みが差していて、髪は短いこげ茶色で、いつもの白い着物ではなかった。
「日照雨?」
 本当に、これは日照雨だろうか?
『わたくしです、きよあき さま。すこしだけ、おからだを おかりしているのです』
 ……「借りて」?
 そうだ、その服装、 髪。それは——
「霧恵?」
 日照雨は、ゆっくりと頷いた。
「お前、いつからそんなことが……?」
『いえ、わたくしも いま はじめて しったのです。このかたは、わたくしと ハチョウがあうのでしょう』
 お前は思わず、日照雨を抱きしめた。
「日照雨、日照雨!」
『ああ、きよあき さま。うれしい、こうして、きよあき さまと、ふれあうことができて』
 夢ではなかろうか、祠から動けないはずの日照雨が、俺の腕の中に……
『きよあき さま、このかたの おからだがもちません。わたくしは、もう——』
 それだけ言うと、日照雨は、ガクッと力を抜いて俺にもたれかかった。
「お、おいっ! 日照雨!」
『はい』
 返事は、背後から聞こえた。
 俺が両肩を揺さぶっているのは、霧恵だった。
「日照雨……、そんな、もう一度……」
 日照雨は首を振り、霧恵を見つめた。
「う……ん」
 霧恵が小さくうなった。もう一度日照雨を見たが、小首を傾げて笑うだけだった。

 くしゃみを一つして、霧恵は目を覚ました。
「え? ……やだ、何で私、ずぶ濡れなの!?」
 説明が面倒臭いな、と思いながら、俺は「それ」を差し出した。
「清明くん? これ……」
 それは、鈴のついた、赤い首輪だった。
「底に沈んでいたよ、見つけて欲しくて、夢に出ていたみたいだな」
「マメ太……」
 俺の手から首輪を受け取り、霧恵は両手で包み込むようにしながら泣いていた。
 半透明のあの仔犬は、嬉しそうにシッポを振りながら、天から差し込む光の中へと消えていった。

 次の日、大雅が昨日のことを聞きに来た。
 俺は小声で簡単に経緯を話し、それから日照雨のことも話した。
「え!? ソバエちゃん、傍に居るのか!?」
 日照雨は、俺のすぐ後ろに、浮遊しながら佇んでいる。
「いいなぁ、会いたい!」
『もう、あえております』
 日照雨が、悪戯っぽく笑う。
「日照雨が、『もう会えてる』だって」
「うわ、セイメイ、顔がデレデレしてるぞ」
 仕方ないだろう、これは。
 日照雨と、前よりずっと長く一緒に居られるのだから。
「セ、清明くん!」
 やっぱり間違えながら、霧恵が声をかけて来た。
 霧恵は、やや怯えながら、「昨日はありがとう」とだけ言って、去って行った。
「やっぱり、怖いんじゃね?」
 大雅が言ったが、意味が解らない。
「だって、乗り移られたんだぜ? 怖くない訳、ないだろ」
 まあ、それは確かにそうか。

 霧恵には悪いことした、とは思うけれど、
(また、憑依してくれないかなぁ。そしたら——)
 俺の背後で、日照雨が困ったように小首を傾げているのを感じた。


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