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結婚するとか、しないとか

「幸せになりたい」と言うと、自動的に「結婚したい」に変換される。グーグルもびっくりのトンデモ翻訳なのに、なぜかそれで通じてしまうからふしぎだ。

25歳を過ぎた女は、多くの場合、結婚すれば幸せになれると信じている。子どものころに聞いたおとぎ話から、思春期に熱中した少女マンガ、話題の恋愛ドラマまで、描いているのは結婚して幸せになる女の姿ばかり。もはや、潜在意識にすりこまれているといっても過言ではない気がする。

でも、本当に、女はみんな結婚すれば幸せになれるものなんだろうか。私は、結婚と幸せを「=」でむすぶような価値観にふれるたび、背中がむずむずしてたまらないほどの違和感を感じる。

いいね、がたくさん集まる幸せのかたち

独身の私が、結婚について一番身近に感じられるのは、既婚の友だちのFacebookページをながめているときだ。結婚式のウエディングドレス姿、新郎からのサプライズに涙するシーン、新婚旅行で訪れた南の島で、夕暮れの海をバックに撮ったツーショット、そして、センスのいい家具がモデルルームみたいに並べられた新居――。

額縁に飾られた"幸せ"を目にするたび、"いいね"どころかぞわっとした気持ちになる。それなのに、どこかで「これが叶えるべき幸せのかたちなんだろうな」と思ってしまう。たぶん、そこで考えるのをやめて「結婚すればもれなく幸せ」っていう一般論を受け入れてしまえば楽なんだろう。

だけどいつも「私はこの子とものさしが違ったはずだ」という疑念がひっかかる。

女の幸せはひとつのものさしではかれるか

私は中学、高校と女子校に通っていた。女ばかり集まっていたのに、気の合う友だちはほとんどいなかった。ただ、―私はちょっと、あまりにも浮いていたとはいえ―価値観が同じ人ばかりじゃないのは当たり前のこと。たぶん、女子校はそれが顕著で、たった40人のクラスでさえ、まったくもってひとつになることがない。

それどころか、グループや派閥が乱立していて、所属しているところが違うとほとんど口をきかない。しかも仲間割れがしょっちゅうあって、ハブったり、ハブられたり、仲直りしたり……。かと思うと、まったく違うグループに所属している者同士が、同じ趣味の話で盛り上がっていることもある。みんながみんな"ゴーイングマイウェイ"だった。

クラスがまとまらないとか、仲間割ればっかりだとか、マイナスに聞こえるかもしれないけれど、たぶんだからこそ女子校で過ごすのは心地よかったんだと思う。誰も自分たちを、ひとつのものさしではかろうとしないから。私はたしかに浮いてたけど、それでいじめられたり、責められたりしたことはなかった。みんなだってきっとそうだ。私は私のものさしを大切にしていいんだって、そう思えたことが、女子校で得た一番大切な学びのはず。

だから、女の幸せをひとつのものさしではかるなんて、いかに馬鹿げているか身をもってわかる。それなのに、あのころ自我を貫き通して生きていた女たちが、25歳を過ぎると急に他人と同じものさしで幸せになりたがるのはなぜだろう。

自分の幸せは自分のものさしではかればいい

「幸せになりたい」は「結婚したい」と同義じゃない。それなのに「10年後、絶対後悔する」と脅されると、結婚する生き方を選ばないと幸せになれないんじゃないかって、勘違いしそうになる。

でも、そんな周囲の雑音にいちいち引っ張られて、焦ったり、傷ついたり、そういうのバカみたいだ。自分の幸せは自分のものさしでしかはかれない。どんな女も結婚したら幸せになれるなんてインチキ宗教みたいだし、結婚してない女が幸せじゃないなんてありえない。10年後、本当に後悔するときが来たら、それを全部背負って生きればいい。

Facebookのなかで幸せそうにしているあの子をうらやむ必要はない。あの子のものさしと私のものさしは違う。だから、私は私のものさしで、幸せになればいいんだと、改めて胸に刻んでおきたい。

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