最近の記事
マガジン
記事
ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)
戦争が終わって、療養所の雰囲気も変わります。「重監房」は廃止され、待遇改善や治療薬プロミンの予算獲得運動などに佐川さんも加わりますが、中でも一番力を入れたのは、強制隔離を定めた「癩(らい)予防法」の廃止運動です。 基本的人権の尊重をうたう「日本国憲法」。しかし、その憲法のもと「らい予防法」は1996年まで存続します。佐川さんはその後、身延の療養所を経て、多磨全生園に移り、貴重な療養所の資料など記録の収集、そしてハンセン病資料館の運営、語り部としての活動に取り組みます。現在は「多磨全生園」の自治会長として療養所の地域への開放などにも取り組んでいます。 その佐川さんが悔しい思いをした「らい予防法継続」を中心に語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)
ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)
全国各地にあったハンセン病療養所で恐れられていたのは「草津送り」という言葉でした。療養所では所長に「懲戒検束権」があり、反抗的な患者や待遇改善を訴えた患者、逃亡を試みた患者などが減食、監禁の罰を受けましたが、特に反抗的とみなされた場合は、栗生楽泉園にあった「特別病室」、またの名を「重監房」と呼ばれた部屋に監禁されたのです(写真は栗生楽泉園の重監房跡)。 冬はマイナス20度近くなる草津の地。病室という名に反して、全く治療も行われなかった「重監房」ではどういうことが起きていたのか、半年間、重監房に入れられた患者への飯運びを担当した佐川少年。その時の様子を語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)
ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)
昭和20年8月、戦争は終わりました。療養所で「軍国少年」として育てられた平沢さんは、終戦をどう受け止めたのでしょうか? 終戦により社会の雰囲気が一変する中、療養所でも患者の権利を訴え、待遇改善を求める声や、アメリカから渡ってきた特効薬「プロミン」の予算獲得など様々な要求の声があがり、平沢さんも運動に加わります。 その一方で、ハンセン病患者が結婚するためには、子供が産めないようにする「断種手術」が合法化され、平沢さんも受けました。 平沢さんは戦争が終わって変わったこと、変わらなかったことについて語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)
ハンセン病と戦争_隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか
TBSラジオ戦後70年特別番組「ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか」。 放送: 2015年7月5日 取材と報告:崎山敏也(TBSラジオ記者) 進行: 片桐千晶(フリーキャスター、「荒川強啓デイキャッチ」アシスタント) ・・・・・・・・・・ ハンセン病の患者の「隔離」の歴史は「戦争」と密接に関わっています。日本が戦争を拡大する中、「強い国家には、戦争に勝つための優秀な国民しかいらない」として、ハンセン病の存在は国の恥とみなされました。日本が戦争に本格的に突き進み始めた1931年、全患者の強制隔離を定める法律「癩予防法」が制定されました。 番組ではお二人のハンセン病の回復者へのインタビューを通じて、戦争時の「差別」の実態を記録し、今後ハンセン病問題をどう語り継ぐか、考えます。 ※写真は春のハンセン病療養所「多磨全生園」。桜は一本一本入所者が植えたものです。