TBSラジオ戦後70年プロジェクト

戦後70年の節目の今年、TBSラジオは、戦争体験談を取材し、放送することを通じて、戦争…

TBSラジオ戦後70年プロジェクト

戦後70年の節目の今年、TBSラジオは、戦争体験談を取材し、放送することを通じて、戦争の風化を防ぎ、平和について改めて考えるきっかけにしたいと考えます。

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「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年の徹底討論」その5

「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」 TBSラジオの戦後70年プロジェクトの一環として、TBSラジオとCRI(中国国際放送局)が共同で制作。2015年7月24日に北京で収録し、8月2日の午後11時から特別番組として放送しました。 出演は、TBSラジオの武田一顯記者、CRIの劉叡琳アナウンサー、そして日中4人の学生です。 このサイトでは特別番組で放送できなかった部分も加えて、5部構成でお聴きいただきます。 第5部は「エンディング~徹底討論の後の日中学生による感想戦」

    • 「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その4

      「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」 TBSラジオの戦後70年プロジェクトの一環として、TBSラジオとCRI(中国国際放送局)が共同で制作。2015年7月24日に北京で収録し、8月2日の午後11時から特別番組として放送しました。 出演は、TBSラジオの武田一顯記者、CRIの劉叡琳アナウンサー、そして日中4人の学生です。 このサイトでは特別番組で放送できなかった部分も加えて、5部構成でお聴きいただきます。 第4部は「未来志向。日本と中国、仲良くできると思いますか?」

      • 「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その3

        「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」 TBSラジオの戦後70年プロジェクトの一環として、TBSラジオとCRI(中国国際放送局)が共同で制作。2015年7月24日に北京で収録し、8月2日の午後11時から特別番組として放送しました。 出演は、TBSラジオの武田一顯記者、CRIの劉叡琳アナウンサー、そして日中4人の学生です。 このサイトでは特別番組で放送できなかった部分も加えて、5部構成でお聴きいただきます。 第3部は「歴史認識問題、日本は反省が足りないと思いますか?」

        • 「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その2

          「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」 TBSラジオの戦後70年プロジェクトの一環として、TBSラジオとCRI(中国国際放送局)が共同で制作。2015年7月24日に北京で収録し、8月2日の午後11時から特別番組として放送しました。 出演は、TBSラジオの武田一顯記者、CRIの劉叡琳アナウンサー、そして日中4人の学生です。 このサイトでは特別番組で放送できなかった部分も加えて、5部構成でお聴きいただきます。 第2部は「尖閣諸島(釣魚島)は日中どちらのものだと思いますか?」(23分38秒)

        「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年の徹底討論」その5

        「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年の徹底討論」その5

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        • 戦後70年 戦争体験談を聴く
          9本
        • 本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論
          5本
        • ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか
          7本

        記事

          「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その1

          「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」 TBSラジオの戦後70年プロジェクトの一環として、TBSラジオとCRI(中国国際放送局)が共同で制作。2015年7月24日に北京で収録し、8月2日の午後11時から特別番組として放送しました。 出演は、TBSラジオの武田一顯記者、CRIの劉叡琳アナウンサー、そして日中4人の学生です。 このサイトでは特別番組で放送できなかった部分も加えて、5部構成でお聴きいただきます。 第1部は「オープニング~日中関係、何が問題だと思いますか?」(29分00秒)

          「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その1

          「本音で話してみませんか?日中学生、戦後70年目の徹底討論」その1

          『爆笑問題・太田光が訊く 瀬戸内寂聴の戦後70年』配信を終了しました。

          TBSラジオは、戦後70年特別番組として今年7月19日に『爆笑問題・太田光が訊く 瀬戸内寂聴の戦後70年』をお送りしました。 放送後、本編ではお送りできなかった未放送部分を含めたディレクターズカット版を有料配信致しましたが、9月30日を持って配信終了を致します。沢山の方々にご利用を頂きありがとうございました。 TBSラジオでは、引き続き戦争を風化させないための様々な番組を放送してまいります。戦争体験談の証言はこちらのnoteで配信してまいりますので、引き続きご利用下さい。

          『爆笑問題・太田光が訊く 瀬戸内寂聴の戦後70年』配信を終了しました。

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          戦争が終わって、療養所の雰囲気も変わります。「重監房」は廃止され、待遇改善や治療薬プロミンの予算獲得運動などに佐川さんも加わりますが、中でも一番力を入れたのは、強制隔離を定めた「癩(らい)予防法」の廃止運動です。 基本的人権の尊重をうたう「日本国憲法」。しかし、その憲法のもと「らい予防法」は1996年まで存続します。佐川さんはその後、身延の療養所を経て、多磨全生園に移り、貴重な療養所の資料など記録の収集、そしてハンセン病資料館の運営、語り部としての活動に取り組みます。現在は「多磨全生園」の自治会長として療養所の地域への開放などにも取り組んでいます。 その佐川さんが悔しい思いをした「らい予防法継続」を中心に語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          全国各地にあったハンセン病療養所で恐れられていたのは「草津送り」という言葉でした。療養所では所長に「懲戒検束権」があり、反抗的な患者や待遇改善を訴えた患者、逃亡を試みた患者などが減食、監禁の罰を受けましたが、特に反抗的とみなされた場合は、栗生楽泉園にあった「特別病室」、またの名を「重監房」と呼ばれた部屋に監禁されたのです(写真は栗生楽泉園の重監房跡)。 冬はマイナス20度近くなる草津の地。病室という名に反して、全く治療も行われなかった「重監房」ではどういうことが起きていたのか、半年間、重監房に入れられた患者への飯運びを担当した佐川少年。その時の様子を語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          東京出身の佐川修さん(84歳)は江東区亀戸に住んでいて、1945年3月11日の東京大空襲に遭遇。逃げまどい大やけどを負いましたが、命は助かりました。しかし、やけどの治療に訪れた病院でハンセン病と診断され、ハンセン病療養所に入ることになります。 当時、収容者数が過剰だった多磨全生園に断られ、佐川少年は雪深い中、現在の群馬県草津町にあった栗生楽泉園に向かいます。そこには、どんな生活が待っていたのでしょうか。 (放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          平沢さんは療養所にいながら、地域の障害者運動に積極的に関わってきました。また、多磨全生園の自治会長もつとめ、ハンセン病資料館では「語り部」を今でも続け、特に子供たちに「命の大切さ」を訴えてきました。 1996年に「らい予防法」は廃止され、違憲訴訟も勝利します。平沢さんは故郷の小学校で講演も行いました。では、ハンセン病への差別はなくなったのでしょうか?また、差別の実態はどのようにして語り継がれていくのでしょうか。88歳の今でも忙しい日々をおくる平沢さんは語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          昭和20年8月、戦争は終わりました。療養所で「軍国少年」として育てられた平沢さんは、終戦をどう受け止めたのでしょうか? 終戦により社会の雰囲気が一変する中、療養所でも患者の権利を訴え、待遇改善を求める声や、アメリカから渡ってきた特効薬「プロミン」の予算獲得など様々な要求の声があがり、平沢さんも運動に加わります。 その一方で、ハンセン病患者が結婚するためには、子供が産めないようにする「断種手術」が合法化され、平沢さんも受けました。 平沢さんは戦争が終わって変わったこと、変わらなかったことについて語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          茨城県出身の平沢保治さん(88)は、1941年の12月24日、まさに日本と連合国が開戦した直後、14歳で現在の東京・東村山市にあるハンセン病療養所「多磨全生園」に入所しました。 国家総動員体制の中、治らない病とされ、強制隔離政策が取られたハンセン病療養所での生活はどのようなものだったのでしょうか?それは「療養」と言えるようなものだったのでしょうか?最初は「1年ぐらいで治して、また故郷に戻るんだ」と考えていた平沢少年。まず、療養所の少年少女寮での 生活を語ります。(放送していない部分も加えたディレクターズカット版です)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか(証言集)

          ハンセン病と戦争_隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか

          TBSラジオ戦後70年特別番組「ハンセン病と戦争~隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか」。 放送:   2015年7月5日 取材と報告:崎山敏也(TBSラジオ記者) 進行:   片桐千晶(フリーキャスター、「荒川強啓デイキャッチ」アシスタント)  ・・・・・・・・・・ ハンセン病の患者の「隔離」の歴史は「戦争」と密接に関わっています。日本が戦争を拡大する中、「強い国家には、戦争に勝つための優秀な国民しかいらない」として、ハンセン病の存在は国の恥とみなされました。日本が戦争に本格的に突き進み始めた1931年、全患者の強制隔離を定める法律「癩予防法」が制定されました。 番組ではお二人のハンセン病の回復者へのインタビューを通じて、戦争時の「差別」の実態を記録し、今後ハンセン病問題をどう語り継ぐか、考えます。 ※写真は春のハンセン病療養所「多磨全生園」。桜は一本一本入所者が植えたものです。

          ハンセン病と戦争_隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか

          ハンセン病と戦争_隔離と差別の記憶をどう受け継ぐのか

          戦争体験談を聴く

          満州での戦闘終了後、ソ連軍は日本人兵士ばかりではなく、18歳から45歳までの民間人男性もシベリアや中央アジアなどの収容所に送って強制労働に当たらせました。 大連での抑留生活を経験した金平昌三さん(81)も傍若無人なソ連兵の行状を目の当たりにしました。満州からの引き揚げ船に無事乗れるのも幸運なことでした。

          戦争体験談を聴く

          侵攻してきたソ連軍兵士は、数多くの殺傷・強姦・略奪を起こしたと伝えられています。 満州の奉天で生まれた長峰恵子さん(80)はソ連兵の行状を目の当たりにしました。中国人の案内で部屋に入ってきた3人のソ連兵。女たちは協力して身を守ろうとしますが・・・ 。

          戦争体験談を聴く

          終戦間近の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、満州に侵攻。国境を破られた日本の関東軍は首都・新京から撤退し、多くの日本人が置き去りにされました。 尾崎富美子さん(93)は神奈川県青根村(現在の相模原市緑区)から、156人の開拓団の一人として希望を胸に満州へ入植しましたが、ほどなくソ連が侵攻。住んでいた村の収容所で暮らすことになりましたが・・・ 。