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職住接近から職住一致、そして職住循環へ

センジュ出版を立ち上げたいくつかの理由のうちの大きな要因として、「職住接近」がある。

大きな地震を経験し、すぐに家族のもとに駆けつけられる場所で働きたいと感じたこと、
そして息子が生まれて、できる限り子どもと過ごしたいと願ったこと。
加えて、できる限り仕事をしたいと考えたこと。
すべてを諦めないとしたら、自分にとっては仕事場を自宅に近づけることの優先順位が高くなった。

2015年。センジュ出版を立ち上げたことで、物理的に「職住」は近づいた。
自宅から自転車を飛ばして信号が青ならば、5分程度で会社に着く。
子どもが熱を出しても、忘れ物をしても、すぐに行き来できる距離。
台風が来ても交通麻痺に悩まされることもなく淡々と仕事を進められ、黙々と家事をこなすことができる。
なんて快適な。

はずだった。
でも、甘かった。

なぜならば、本当の意味での職住接近が、わたしには当時理解できていなかったから。

物理的に近づいたところで、頭はまだまだ仕事脳。
帰ってから何度もため息つきながら仕事に追われた。
早く食べ終わらない息子、わたしと遊びたがる息子に、
いい加減仕事させてよ、とイライラが募ることもしばしばだった。
単純に格好だけ真似ても、物事の本質を理解していなければ何の意味もなさないように、
センジュ出版が立ち上がって数年のわたしは、ずっとずっと時間に追われていたように思う。
それでも、会社員時代の激務に比べれば断然「暇」になっていたので、わたしはすっかりバランスをとっているつもりでいた。

「忙しそうだね」と言われたところで、「いや、全然」と強がりでもなく思っていたのは、実際自分にとってかなりの時間を子どもに「奪われ」ていると考えていたから。
目の前の息子との大事な大事な時間に集中することなく、心ここに在らずで、仕事のことばかり考えていたから。
仕事がまったくできていない、子どもに絵を描くことをせがまれたり、探険ごっこするように促されたりしている時間の、どこが忙しいのか。
わたしはすっかり暇だ、と「頭」で考えていた。

結果、少しずつため息が増え、何のために職住を接近させたのか、見失いかけた。


「職住接近」が意味していたものを本質的に自分が理解するようになった一つのきっかけに、
目に見えないウィルスの存在がある。
これほどまでに「家族」で、「家」で過ごしてください、のメッセージを連日耳にするようになって初めて、「職住接近」が本当の意味で現実のものとなっていった。
さらには接近どころではなく、「一致」することになり、
自分に欠けていたものが、よくわかった。

加えて、社内外のセンジュ出版を支えてくれるメンバーとの対話があった。
口々に言われたことは、この会社が何のために存在するのか、わたしが、わたし達が本当に望んでいることは何だったのか、の問い。
おかげでこの数ヶ月は、自宅のそばに会社を作ったあの頃の感情を丁寧に思い出した。

職住は、
はたらくことと、くらすことは、
別々のものではなく、つながり合う一つの流れのこと。
たった一つ。
誰かのためにも、ここで自分が生きている、ということ。

家で仕事をするようになってこんなにも家事に終わりがないことを、恥ずかしい話、今さらながらに知った。
仕事場の環境を整える意味でも自宅に手入れをしていくうちに、
いつしか自分がお金を生むことと生まないことに明確な線引きをしてしまっていたことが、とんでもなく恥ずかしくなった。
家の手入れもまた、はたを楽にする、はたらき。これもまた大切な大切な仕事だった。

できる限り家族と過ごし、できる限り仕事をしたい、センジュ出版を立ち上げたときの自分は、それぞれの自分を別人のように切り分けて考えていたけれど、
そうではない。
職住を大切にしたいのであれば、それぞれの時間を人生の中に確保することを、自らが決めなければいけない。
会社のための仕事、家族のための仕事、それぞれのはたらきがあって、
「くらす」自分も生きてくる。
一つとなったことを感じてはじめて、それぞれが「循環」していく。

接近から一致になって、循環するまでに6年。
早かったのか、遅かったのか。
けれど循環になってようやくこの会社がほがらかな表情を浮かべているような気がするので、
「悪くないだろう」と、あの紫のジャケット着たお兄さん風に、ボソッと言ってみたい。


#今日の (正確に言うと昨日の)一冊
#季節の仕事
#松田美智子
#255 /365

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