見出し画像

『信長公記』「首巻」を読む 第13話「簗田弥次右衛門御忠節の事」

第13話「簗田弥次右衛門御忠節の事」

一、さる程に、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて、一僕の人あり。面白き巧みにて知行過分に取り、大名になられ候子細は、清洲に那古野弥五郎とて十六、七、若年の、人数三百計り持ちたる人あり。色々歎き候て、若衆かたの知音を仕り、「清洲を引きわり、上総介殿の御身方候て、御知行御取り候へ」と、時々宥め申し、家老の者どもにも申しきかせ、欲に耽り、「尤」と、各同じ事に候。
 然る間、弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣、内々申し上ぐるに付いて、御満足斜ならず。
 或る時、上総介殿御人数清洲へ引き入れ、町を焼き払ひ、生城に仕り候。信長も御馬を寄せられ候へども、城中堅固に候間、御人数打ち納れられ、武衛様も城中に御座候間、透を御覧じ、乗つ取らるべき御巧みの由、申すに付いて、清洲の城外輸より城中を大事と用心、迷惑せられ候。

【現代語訳】

一、このような時、武衛様(尾張国守護・斯波義統)の家臣に簗田(やなだ)弥次右衛門という、「一僕の人」(下僕、身分の低い人)がいた。彼は、面白い策略を使って、身分不相応の領地を有する大名になった。その詳細は次のようなものである。
 清洲城に、那古野弥五郎(「第2話 小豆坂合戦の事」で討死した那古野弥五郎の子)といって、16、7歳でまだ若いが手勢約300人を持っている武士がいた。いろいろと甘い言葉をかけて、男色の関係を持つようになった。その上で、「清洲城内を分裂させ、織田信長の味方になって、領地をもらいなさい」と時々そそのかし、斯波家の家老衆にも言うと、欲に目がくらんで、「そうするか」と賛同した。
 そうして、梁田弥次右衛門は、織田信長のところへ行き、「(織田信長に)忠節を尽くして仕えます」と、密かに申し上げると、織田信長は大変満足した。
 ある時(天文21年8月16日の深田・松葉両城奪還後)、織田信長は軍勢を清洲へ引き入れ、町を焼き払い、清州城を生城(はだかじろ。城の周囲に何もない城)してしまった。織田信長も出馬して清州まで来たが、清州城は堅固な城で、城兵は出陣せずに籠城したので、織田信長は、攻めあぐねた。織田信長は、「城内には武衛様がおられ、攻め込んで武衛様を危険に晒すことは出来ないので、隙を見て乗っ取ろう」と梁田弥次右衛門の策略(内部分裂策)について話したので、それが伝わって、清州城では、「清洲城外より城も中の監視が大事」と用心したので、織田信長は難渋した。

【解説】

清州城址は、東海道本線と新幹線で分断されています。

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!