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『信長公記』「首巻」を読む 第24話「土岐頼芸公の事」

第24話「土岐頼芸公の事」

※土岐頼芸の追放は天文11年の事ですので、本当は第3話なのですが、斎藤道三関連ということでこの位置に。(本来は、第24話と第25話で1話ですが、2つに分けました。「首巻」掲載の話の数は、人によって全48話だったり、全51話だったりしますが、私はきりよく全50話で編集しました。)

一、斎藤山城道三は、元来、山城国西岡の松波と云う者なり。
 一年下国候て、美濃国長井藤左衛門を憑み、扶持を請け、与力も付けられ候処、情無く、主の頸を切り、長井新九郎と名乗る。
 一族同名共野心を発し、取合ひ半の刻、土岐頼芸公、大桑に御在城候を、長井新九郎を憑み奉り候ところ、別状なく御荷担候。其の故を以て、存分に達し、其の後、土岐殿御子息・次郎殿、八郎殿とて、御兄弟これあるを、忝くも次郎殿を聟に取り申し、宥し奉り、毒害を仕り殺し奉り、其の娘を又、御席直しにをかせられ候へと、無理に進上申し候。
 主者稲葉山に居り申し、土岐八郎殿をば山下に置き申し、五、三日に一度づゝ参り、御縁に「御鷹野へ出御も無用。御馬などめし候事、是れ又、勿体なく候」と申しつめ、籠の如くに仕り候間、雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で候ところ、追い懸け、御腹めさせ候。
 父・土岐頼藝公、大桑に御座候を、家老の者どもに属託をとらせ、大桑を追ひ出し候。それより土岐殿は尾州へ御出で候て、信長の父の織田弾正忠を憑みなされ候。
 爰にて何者の云為哉、落書に云ふ。主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさだいまは山しろと侍り、七まがり百曲に立て置き候らひし。恩を蒙り恩を知らず、樹鳥枝を枯らすに似なり。山城道三は、小科の輩をも牛裂にし、或ひは、釜を居え置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、人を煎殺し候事、冷まじき成敗なり。

【現代語訳】

一、斎藤道三は、元は、山城国西岡(京都府乙訓郡西岡)に住んでいた「松波」という者である。いつの年からか、京都から下って美濃国の小守護代・長井藤左衛門長弘に扶持を受け、与力(家来)も付けられた。その後、享禄3年(天文2年とも)、無情にも、主人・長井長弘の首を切り、「長井新九郎規秀」と名乗った。
 長井の一族同名の者たちも野心を起こし、争っていた時、土岐頼芸は、大桑城にいたのであるが、長井新九郎が頼りにすると、すんなりと加勢してくれた。そのおかげで、長井新九郎は、天文7年(1538年)、本意を遂げ、「斎藤新九郎利政」と改名した。
 その後、土岐政房(土岐頼芸の父)の子(土岐頼芸の弟)に、土岐次郎頼満、土岐八郎頼香という兄弟がいた。忝(かたじけな)くも、斎藤利政は、土岐頼満を聟に取り、ご機嫌を伺っていたが、天文10年(1541年)、毒殺した。(当時は、兄の死後、兄嫁と弟が結婚することは珍しくなく、)斎藤利政は、その娘(若後家)の再婚相手に土岐頼香を選び、無理やり結婚させた。
 斎藤利政は、主に稲葉山(金華山の稲葉山城)にいて、土岐頼香を山麓の館に住まわせ、5、3日に1度はその館に訪れて、「御縁に」(縁者として、義父として)、「鷹狩には行くな。乗馬など滅相もない」(とあれこれ禁止して)檻に閉じ込めたかのように扱ったので、天文13年(1544年)9月、雨の降る夜、闇に紛れて館を密かに出て、馬に乗って尾張国を目指していたところ、追いつかれて切腹させられた。
 土岐頼芸は、大桑城にいたが、斎藤利政は、家老衆に賄賂を贈り、天文11年(1542年)、大桑城から追い出した。それ以降、土岐頼芸は、尾張国へ逃亡し、織田信長の父・織田弾正忠信秀に匿われた。
 この時、何者かによる落書に、
 〽主をきり聟をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ
(主君を斬り殺し、娘婿まで殺すのは身の終わり(美濃・尾張のひとである)。昔は(源頼朝の父・源義朝を裏切った)尾張国の長田忠致、今は美濃国の斎藤山城守。)
とあり、稲葉山城の城下町(岐阜県岐阜市)の七曲り、百曲り(道の角)に立てられた。恩を受けて、恩を返さないのは、鳥が木の枝に巣を作って、その木を枯らしてしまう事に似ている。
 斎藤山城守道三は、小さな犯罪を犯した者をも(重罪を犯した者と同様の)「牛裂きの刑」に処し、あるいは、「釜茹での刑」として、(犯罪者を大きな釜に入れ、)犯罪者の妻や親・兄弟に火をたかせて殺すなど、冷酷な処刑を行った。

【解説】

【美濃国守護・土岐氏略系図】

土岐政房┬頼武─頼純
    ├頼芸┬頼栄→廃嫡
    ├頼満├頼次(二郎)【高家旗本】
    └頼香├頼宗
         └頼元(頼重、五郎左衛門)【土岐家】

※美濃国守護:土岐⑨政房→⑩頼武→⑪頼芸

 斎藤道三は、土岐頼芸(よりのり)に取り入って出世し、後に土岐頼芸を追放して美濃国を支配した。
 原文は、斎藤道三は娘を「土岐頼芸の長男、次いで次男に結婚させた」と読めるが、正しくは、「土岐政房の三男、次いで四男に結婚させた」である。そして、三男・頼満を毒殺し、四男・頼香は、「土岐頼芸がいる尾張国へ向けて夜逃げしたのを追って切腹させた」のではなく、「無動寺城にいた時に切腹させた」である。
土岐塚(岐阜県羽島郡笠松町)
http://www.town.kasamatsu.gifu.jp/docs/2012121900761/

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