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『信長公記』『松平記』『三河物語』にみる「桶狭間の戦い」

「桶狭間の戦い」について語る時の必読書は、
・太田牛一『信長公記』
・大久保忠教『三河物語』
・阿部定次『松平記』
ですね。

 ──何が問題かって、三冊三様ってことです。

《『信長公記』の「桶狭間の戦い」》
https://note.mu/senmi/n/nd7f28bfc3ed9

①5月17日、今川義元、沓掛城に着陣。
②5月18日夜、松平元康(後の徳川家康)大高城兵粮入れ。
②5月19日早朝、今川軍、丸根砦と鷲津砦を攻撃。
③今川義元、45000人の兵を率いて、桶狭間山に着陣。
④午の刻、今川義元は、北西に向けて陣を張る。
⑤織田信長、善照寺砦に着陣。それを見て、佐々隊、抜け駆け。
⑥佐々隊の敗北を見て、織田信長は、善照寺砦から中島砦へ移動。
⑦中島砦から出陣して「山際」へ行くと、暴風雨となる。
⑧暴風雨が収まったので、攻撃開始。
⑨今川義元の旗本発見。未の刻、東へ向かって攻撃。
⑩今川義元の親衛隊300人を攻撃。攻撃を繰り返すと50人となる。
⑪今川義元を討ち取る。

《『三河物語』の「桶狭間の戦い」》
https://note.mu/senmi/n/na71b99b6649d

①5月17日、今川義元、岡崎城発、知立城着。
②5月18日、今川義元、知立城発、大高城(?)着。
③5月19日、今川義元、丸根砦を巡視。
④今川軍、丸根砦の扱いについて会議。
⑤松平元康が丸根砦を落としたので、大高城へ兵粮を入れる。
⑥今川軍、大高城の城番について会議。松平元康、大高城へ入る。
⑦織田信長、着陣。今川軍、石川(三河衆)を呼んで会議。
⑧石川、退席。この時、織田軍が山を登り始めていた。
⑨今川義元は、本陣で昼食。そこを暴風雨が襲う。
⑩織田信長、3000人で今川本陣を襲い、今川義元を討つ。

《『松平記』の「桶狭間の戦い」》

①5月19日昼、大雨が降る。
②今川義元が昼食にすると、近くの寺社から酒肴が届けられた。
③今朝の戦勝もあり、酒宴となった。
④織田信長、善照寺砦に着陣。兵を2つに分ける。
⑤織田軍先鋒は今川軍先鋒を攻め、織田軍本隊は今川本陣を襲った。
⑥今川本隊は、織田信長の急襲と鉄砲の音に驚き、撤退。
⑦山の上から織田軍100人が降りてきて、今川義元を討った。

【原文】永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。

【現代語訳】 永禄3年5月19日の昼頃、大雨が頻りと(ひっきりなしに)降った。今朝の戦(丸根砦、鷲津砦攻め)の勝利は目出度いと、鳴海桶狭間で弁当(昼食)をとっていると、周囲の寺社から、酒、肴の差し入れがあり、馬廻衆のメンバーも(今川義元に)酒を振る舞われていた時、織田信長が攻めてきた。織田信長は、(今川軍がいた)笠寺の東の道を(今川軍を避けて)通り、善照寺砦に着陣て兵を集めると、兵を2手に分け、1手は今川軍の先鋒を襲い、もう1手は、油断していた(早朝の戦勝で酒宴を開いていた)今川本陣を襲い、鉄砲を撃ったので、味方(松平軍の味方=今川軍)は思いもよらぬことであったので、皆、逃げた。その時、山の上から、織田軍100人が襲いかかり、今川義元は討たれた。この時、服部小平太一忠(春安、忠次)が長槍(織田軍の槍は長さ3間半(約6.4m)!)で今川義元を刺したが、今川義元は刀で、服部一忠が持つ青貝の装飾の槍の柄を切り、さらに服部一忠の膝口を斬った。今川義元の首を取ったのは毛利新助良勝であるが、彼が今川義元の口へ左手の指を入れると、今川義元に食いちぎられた。

と書かれていることが異なるので、困ります。
 織田軍については、善照寺砦に集結したところまでは、異論はないと思いますが、それ以降は、
・『信長公記』:抜け駆けの佐々隊と、中島砦から出陣した本隊
・『三河物語』:不明
・『松平記』:善照寺砦で、先鋒を襲う隊と本陣を襲う隊に分けて出陣
と食い違います。
 多分、『信長公記』の佐々隊は、抜け駆けではなく、『松平記』でいう先鋒を攻撃する隊(華々しく戦う囮)であり、今川軍は、佐々隊が織田本隊だと思い(織田信長の動員数は数千人で、大半は清洲城にいると考えていたので、これで織田軍全員だと思い)、佐々隊への攻撃に集中している隙きに、織田本隊は密かに今川本陣に近づいたということでしょう。

※『松平記』など、古文書には「桶狭間」の戦いではなく、「鳴海・桶狭間」の戦いとあります。「午前の鳴海村での佐々隊と今川軍の戦い、暴風雨を挟んで、午後の桶狭間村での織田本隊と今川本隊との戦い」の総称なのでしょう。

 学者が「史実に近い」と重視しているのは『信長公記』の記述ですが、『信長公記』だけで「桶狭間の戦い」を考えるとしても問題があります。それは、

 ──研究者によって解釈が異なる。

からです。たとえば、『信長公記』に、織田信長は中島砦から「山際」に移ったとありますが、この「山際」については、
・今川義元の仮本陣があったと思われる漆山の「山際」
・今川義元の本陣があったと思われる桶狭間山の「山際」
・桶狭間山へ向かう道の入口(坊主山の「山際」)
・桶狭間山へ向かう登山口(漆山と桶狭間山の中間。現在の「鎌研」)
と、研究者によって解釈が異なっているのです。

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兵数もよく分からない。
・織田軍 2000~5000人
・今川軍 20000~45000人
織田軍は5000と2000では、3000の差しかないので、織田軍の兵数は「5000人以下の数千人」でいいと思うけど、今川軍は、45000と20000では25000も差がある!
 現地の地図(上の写真)では、織田軍の青いマークが7個。対して赤い今川軍のマークが10個と少ない。70個くらい書いてもらわないと、あるいは、兵数に比例してマークの大きさを変えてもらわないと、合戦のイメージが掴めない。この地図だと、「織田軍7:今川軍10の戦いなのか」と思ってしまう。もしそうであれば、織田軍の勝利は不思議ではない。

 ──織田軍が今川軍に勝てたのは、兵数に差がなかったから?

今川軍は、45000人いたというけど、大半は資材や兵粮を運ぶ人夫(非戦闘員)だったとか、織田軍が鎌倉街道を通り、今川軍の後方を突くのを防ぐために沓掛城に置かれた兵士は、織田軍がそういう作戦をとらなかったので、結局、戦うことがなかった・・・こう考えていって、織田軍と実際に戦った今川軍の兵数は、織田軍の兵数と大差なかった・・・だとすれば、織田軍の勝利は不思議ではない。

 ──五月十九日午の剋、戌亥に向つて(段々に)人数を備へ、鷲津、丸根攻め落し、「満足これに過ぐべからざる」の由にて、謡を三番うたはせられたる由に候。(『信長公記』)

 「正午、今川義元は、桶狭間山の本陣から北西に向けて何段にも陣を置き、鷲津、丸根砦を攻め落としたという報告を聞いて喜んだ」というから、桶狭間山から漆山まで、赤いマークを並べてもいいと思います。

 「桶狭間の戦い」の最大の謎は、織田本隊の動きです。古文書を読んでも、暴風雨が収まったら、今川義元の目の前に織田信長がいて・・・善照寺砦から、今川本陣までどう移動したかが不明です。
①迂回(大回り)した。(今川軍の視界の外を密かに進軍した。)
②中央突破した。
 ①は「こう考えるしかないだろ」という想像で、②が古文書の正しい解釈(大回りをしたのであれば、その迂回路についての記述があるはず)でしょうけど、これだと、今川本陣に辿り着く前に、織田軍は全滅しているでしょう。今川軍の兵数は、織田軍の10倍ですから。
 とすると、
 ──今川義元がすぐ近くにいたから中央突破するまでもなかった。
 ──今川義元がすぐ近くにいたから織田軍の進軍ルートを書くまでもない。
と考えるしかないです。今川義元は、漆山の仮本陣で、鳴海村での戦いを見ていた。ところが、清洲城に籠城していると思っていた織田信長が善照寺砦に来て、さらに中島砦に移ると、
 ──近すぎる。
と思った今川義元は、本陣(桶狭間山)に向けて撤退を始めた。それを織田信長が追って、桶狭間村で討った。これであってる?

 この戦いで、最も多くの褒賞が与えられたという梁田政綱は、こう言っています。

 ──敵は今朝、鷲津、丸根を攻めて、その陣を変へからず。然れば、此分にかからせ給へば、敵の後陣は先陣なり。是は後陣へかかり合ふ間、必ず大将を討つ事も候はん。唯、急かせ給へ。

 今川軍の陣立ては、「先陣(三河衆)─本隊(駿河衆)─後陣(遠江衆)」で、先陣は鷲津砦と丸根砦を攻め、まだそこに残っている。(今川軍は、織田信長の行動は、清洲城に籠城するか、鷲津砦と丸根砦を助けに来るかのどちらかであると考えていたが、鷲津砦と丸根砦を助けに来なかったので、清洲城に籠城していると考えていたのであるが、)織田信長が遅れてやって来たので、急いで後陣(遠江衆)を本隊(駿河衆)の前に出して先陣(本隊の前の壁)とした。こうして、本隊(駿河衆)は後陣となってしまった。織田信長としては、先陣(遠江衆)を倒して(中央突破して)後陣=本隊(駿河衆)を討つか、先陣(遠江衆)の横をすり抜けて(先陣は山の上にいるので、山裾を通って)後陣=本隊(駿河衆)を討つかであるが、暴風雨の助けを得て、すり抜けられたらしい。そして、暴風雨が収まったので、山裾から山に登ると、梁田政綱が言った通り、そこに今川義元が、たった500人に囲まれた状態でいた。先陣(遠江衆)は「してやられた!」と本隊(駿河衆)の救援に向かうも、起伏や深田、草木に阻まれ、到着した時には、すでに今川義元は討たれていた。

以上、織田軍が、今川軍に勝てた理由は、
①今川義元がすぐ近くにいたので、全軍でピンポイント攻撃した。
②今川義元は遠くにいたが、暴風雨に背中を押されてすぐ前に移動できた。
③今川軍は大軍だが各所に点在していて、織田軍と交戦した兵は数少ない。
のどれかかな?

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