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『政秀寺古記』を読む 第2話「太田和泉守牛一并平手中務太輔政秀之事」

第2話「太田和泉守牛一并平手中務太輔政秀之事」

一、太田和泉守と云ふ人は、尾州春日井郡の内、山田之庄内、天台之常観寺と云にそだちたる者なり。後、還俗し、信長公へ遅く奉公申しし者也。斯の故に、信長卿、御成立を細に知らず也。記をとし候事、これ有り。後の人、却(しりぞけ)てこれを誹(そし)る。

一、葛原親王の嫡孫、平相国大政入道清盛卿二十代の華冑、織田弾正忠、後に備中守と申しけり。此家老に平手中務太輔政秀と云ふ人、後に長門守と申す也。(始監物、又、五郎左衛門、長門守。信長、将軍に任する日、太輔と称す。始清秀、信長元服の日、政と改む。)

【現代語訳】

一、(『信長公記』の著者、あるいは、「六人衆」の1人、弓の達人として知られている)太田和泉守牛一という人は、尾張国春日井郡山田庄安食村(現在の愛知県名古屋市北区)土豪の家に生まれたが、出家させられ、天台宗の常観寺(安食一族、山田一族の菩提寺で、「常観寺」は安食重頼の法号「常観坊隆憲」による。現在は「成願寺」と名を変え、名古屋市北区成願寺二丁目に移っている)という寺で育った。後に、還俗して、斯波義統、柴田勝家の家臣を経て、ようやく織田信長公に奉公した者である。このため、太田牛一は、織田信長公の成り立ち(幼少期)を詳しくは知らない。『信長公記』を書いたが、後の世の人は、この本を排した。(が、現在は「史実に近い内容」としてよく用いられている。)

一、葛原親王(桓武天皇の第3皇子。桓武平氏の祖)の嫡流の子孫である平清盛公(大相国、太政大臣)から20代の華冑(かちゅう。高い身分の家柄)を織田信秀(弾正忠、後に備後守)という。織田信秀(織田弾正忠家)の次席家老に平手政秀(中務丞、後に長門守)という人がいた。

【解説】

《織田弾正忠家系図》
①平清盛─②重盛─③資盛─④織田親実─⑤親基─⑥親行─⑦行広─⑧末広─⑨基実─⑩広村─⑪真昌─⑫常昌─⑬常勝─⑭教広─⑮常任─⑯勝久─⑰久長─⑱敏定─⑲信定─⑳信秀─㉑信長

『信長公記』を批判する割には、織田氏=平氏ですか・・・藤原氏だとか、忌部氏だとか書いてあれば信じるのですけどね。

 原本注(後世の加筆)に「始監物、又、五郎左衛門、長門守。信長、将軍に任する日、太輔と称す。始清秀、信長元服の日、政と改む。」(初めは「監物」、また、「五郎左衛門」「長門守」。織田信長の命令で上洛して足利将軍に会った時に「大輔」と称した。初めは「清秀」。織田信長の元服の日に「政秀」と改めた。)とあります。平手政秀の幼名は「狛千代丸」、初名は「清秀」で、織田信長の元服の日に家老となり、「政秀」と名を改めたそうです。「監物」は平手家の宗主が名乗る官名です。

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