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『信長公記』「首巻」を読む 第29話「吉良・石橋・武衛三人、御国追出しの事」

第29話「吉良・石橋・武衛三人、御国追出しの事」

一、尾張国端、海手へ付けて、石橋殿御座所あり。服部左京助、駿河衆を海上より引き入れ、吉良、石橋、武衛仰せ談ぜられ、御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞き、則ち御両三人御国追ひ出だし申され侯ひしなり。

【現代語訳】

一、尾張国西端の海岸付近(の戸田氏の本貫地・戸田荘)に、石橋義忠の居館「戸田館」(愛知県名古屋市中川区戸田)があった。服部左京進友定(「友貞」とも)は、駿河衆を(知多半島の駿河衆の尾張国攻略拠点から船に乗せて蟹江へ)引き入れていた。(当時はまだ尾張国の統一がなされておらず、尾張国津島の南にある「荷の江」(愛知県弥富市荷之上町)を本拠地とする服部友定は、織田信長に対抗し、尾張国知多郡(知多半島)は今川氏に占領されていた。天文24年(1555年)年、石橋義忠の手引で、今川勢が知多半島から服部左京進友定の船で尾張国入りし、織田民部が守る蟹江城(愛知県海部郡蟹江町城1丁目)を攻め落とすと、蟹江城は、服部友定の属城となった。)

 足利将軍家一族の吉良義昭、石橋義忠、斯波義銀が共謀して、織田信長への謀反を企んでいる時、織田信長はこの話を家臣から聞き(吉良、石橋、斯波の家臣の誰かが織田信長に密告し)、すぐに吉良義昭、石橋、斯波義銀の3人を、尾張国から御国追い出した。

【解説】

疑問が多い。
・石橋は地元として、斯波義銀は清洲から来たとして、吉良義昭がなぜここにいる? どうやって来た?
・吉良義昭は織田方から、今川方に寝返った?
・斯波義銀も織田方から、今川方に寝返った?
・織田信長に尾張国守護・斯波義銀を尾張国から追い出せる権限がある? 追い出された斯波義銀はどこへ行った?
・これっていつの話? 弘治2年? 「桶狭間の戦い」後?

《登場人物》
・織田信長
:尾張国下4郡の守護代。
服部友貞:「服部左京進友定」とも。伊勢河内服部党。尾張国津島の南にある「荷の江」(愛知県弥富市荷之上町)を本拠地とする。一向宗の坊主で、「織田信長の天敵」と言われる。
石橋義忠:斯波一族で、尾張国海東郡の戸田周辺を支配していた。
斯波義銀:尾張国守護。母は石橋氏(石橋義忠の娘?)。
吉良義昭:三河国守護。足利一族の吉良氏。

蟹江城攻め:天文24年(1555年)年8月3日、駿河の今川勢・松平親乗が、織田民部の守る蟹江城(愛知県海部郡蟹江町城1丁目)を攻撃し、蟹江城は落城し、服部友定の属城となった。特に今川方(三河衆)の大久保忠勝、大久保忠世らの戦功はめざましく「蟹江七本槍」と称された。
 この戦いの手引をしたのが戸田荘の石橋義忠で、今川軍は、服部友定の助けで、知多半島(常滑?)から海路を通って蟹江へ乗り付けた。津島に近い伊勢湾海運拠点を奪われたことは、織田信長にとっては、大きな痛手となったであろう。

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