見出し画像

『信長公記』「首巻」を読む 第9話「犬山謀叛企てらるゝの事」

第9話「犬山謀叛企てらるゝの事」


一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。

一、正月十七日、上の郡、犬山、楽田より人数を出し、かすが井原をかけ通り、龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々に烟をあげ候。即時に末盛より、備後殿御人数かけ付け、取り合ひ、一戦に及び、切り崩し、数十人討ちとり、かすが井原を犬山、がくでん衆逃げくづれ候。何者のしわざ哉覧、落書に云ふ。
やりなはを引きずりながらひろき野を 遠ぼえしてぞにぐる犬山
と書きて、所々に立て置き候らひし。
 備後殿御舎弟・織田孫三郎殿、一段武篇者なり。是れは守山と云ふ所に御居城候なり。

【現代語訳】

一、天文17年、織田信秀は、居城・古渡城を廃城として、末森(「末盛」に通じる縁起の良い地名)に山城・末森城を築いて居城とした。

一、天文18年1月17日、(織田信秀が病に伏したという情報が流れたのか、)尾張国上4郡(守護代は織田伊勢守家)にある犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)と楽田城(愛知県犬山市楽田)から兵が出て、春日井原(愛知県春日井市)を駆け抜け、龍泉寺(愛知県名古屋市守山区竜泉寺)の山麓、柏井(愛知県春日井市柏井町)口へ攻め寄せ、所々に火を放ち、煙があがった。(織田信秀は病に伏していたが)すぐに末森城(愛知県名古屋市千種区城山町)から、織田信秀配下の兵が駆け付け、衝突して、戦となり、切り崩し、数十人を討ち取ると、敵(犬山衆、楽田衆)は崩れて、春日井原を犬山、楽田へ逃げていった。何者の仕業か分からないが、落書に、
 〽遣縄を引き摺りながら広き野を 遠吠えしてぞ逃ぐる犬山(遣縄(リード)を引きずりながら広い春日井原を遠吠えしながら犬山へ逃げる犬。裏の意味は、槍などを引きずりながら春日井原を負け惜しみを言いながら犬山へ逃げる犬山衆)
と書いて、所々に立て置かれた。
 (織田信秀が病に伏しても)織田信秀の弟・織田信光は、人一倍優れた武将であった(ので敵を蹴散らすことが出来た)。彼の居城は(末森城の近くの)守山城(愛知県名古屋市守山区市場)である。

【解説】

 織田信秀の死亡年には、天文18年説、天文20年説、天文21年説など諸説ありますが、この記事からは、死亡年は、天文18年だと思われます。

 織田信秀の死後、織田弾正忠家を継ぐ候補者は、
・武辺の者・織田信光(織田信秀の弟)
・大うつけ・織田信長(三男ではあるが、上の2人は側室の子なので嫡男)
・品行方正・織田信勝(四男)
だったそうです。

 この第9話の記述や『武功夜話』からは、織田信光の働きで犬山衆(犬山城主・織田信清)や楽田衆(楽田城主・織田寛貞)が敗れたように思われます。この合戦の時、那古野城主・織田信長や末森城の織田信勝は、どこで何をしていたのでしょう?

※楽田城:後に犬山城主・織田信清が織田信長に付いて攻め落とし、犬山城の出城にした。

 この第9話が理解できないのは・・・「尾張国が上4郡(岩倉中心)と下4郡(清州中心)に分かれていて、上4郡(犬山、楽田)の兵が下4郡に侵攻した」という話だと思うのですが、だとすると、上4郡の領主・織田信安(岩倉城主)が「侵攻するな」と止めるか、下4郡の領主・織田信友(清州城主)が追い払うはずであり、なぜ織田信長が出てくるのでしょう? 織田信友に追い返すよう命令されたのでしょうか?




あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!