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『政秀寺古記』を読む 第10話「百菊之屏風之事」

第10話「百菊之屏風之事」

 信長卿曰ふは、「澤彦、長々滞在候て辛労たるべし。慰め候はん為め、朱印相調祝儀となし、四座の御能仰せ付けらるべし」との御催なり。「上下の僧俗とも見物致すべし」と兼日に御觸れ廻されけり。
 角て翌朝、澤彦登城そろ處、御座しきに金屏を立てまわされ、御同席にて見物仰せ付けられ、御能始り、一番過ぎそろて、信長卿、皮蹈鼻を一足、御手に提げられ曰は「澤彦は、蹈鼻を持たずや。是れはき候へ」と仰せながら、緒を御とき候て下し給ふ。澤彦曰く「『履、新しと雖へども、冠りとなさず』とは申せども、是は余り過分也」と云ひながら着けられ候へども、足太く、逞ふして着けかねられたりと見へしところ、信長卿、御覧じて、「いで、われ、はかせ申さん」とて、御手傳い成され候て、着られたりと、後が後までも、萬口、言ひ傅へたり。此時代迄は、田舎にて、僧衆、皮蹈鼻をはかぬ物と心得居候故、八宗、九宗の僧衆、見物いたし居そろ故、「さて、出家も、皮蹈鼻は苦しからずや」とて、是よりはき候也。
 角て、御能、過ぎ候て、奥へ召しつられ、御朱印の賀儀として、尾州海西郡の内にて、寺領二百貫文、寄附せらるの御判物、并に、狩野の古法眼が繪たる秋の野の百菊の御屏風一雙、進ぜられ候。澤彦、心肝に銘じ、有り難く頂戴せられ候へば、信長卿、曰く、「今度、御朱印の字、別して感悦に堪へず。依りて尾州守山村之内、木賀崎の長母寺は、古跡の由、聞き及び候。此寺も下され候」旨、直に仰せ渡され、「御判形は追て遣さるべし」旨、仰せられけり。澤彦、于今(いまに)始まらず、芳恵共、謝意盡難き」段言上そろて、翌朝、尾州へ帰寺候事、「僧中の栄耀哉」と僧俗ともに萬口一統に云傅へたり。
 其後、御禮に岐阜に進發せられ候へば、信長卿、御感悦にて、又、「小侍従が許にて、一両日、滞留然るべく」の旨、仰せ下さる。御意の通り、小侍従の宿所へ、幸若太夫を遣られ、舞をまわせて御慰め候。彼是五、六ヶ日も滞留そろて、御暇乞申され候へば、宿所へ御使者にて、金子一枚、進ぜられ候て、帰国候なり。
 「近々、又、越境そらへ」との釣命にて、程なく御見廻に越境候へば、早速、御対顔、種々御咄等、数刻に及び成され候間、「小侍従許に宿て、明朝、登城然るべし」との仰せに随い、明日、登城處、饗膳、御酒杯給りそろて、御意に「已来は檀那に成らせ給ふ」の旨仰せられ、「岐阜に寺を新に建立成され候はん」との御約束也。角て帰国の時は、又、宿所へ御使者にて、黄金一枚進ぜられけり。

一、右の「百菊の屏風」は、澤彦より、天正十三年の頃、織田源五郎殿へ、澤彦和尚、進ぜられ候。此の源五郎殿は、有楽恕菴と申す御方也。

【現代語訳】

 織田信長は、「沢彦和尚よ、長々と岐阜に滞在して疲れたであろう。慰め(気晴らし)に、朱印の印文が決まったお礼として、四座(大和猿楽の四座(結崎、外山、坂戸、円満井)。後に、観世、宝生、金剛、金春と改称)の能を見られよ」と言った。「身分も、僧俗も関係なく見ても良い」というお触れを兼日(けんじつ。興行日より前の日。ここでは明日が興行日であるので、「その日の内に」の意)に出した。
 こうして翌朝、沢彦和尚が岐阜城へ来ると、織田信長は、座敷に金屏風を立て、沢彦和尚と同席して能を見物した。一番終わったところで、織田信長は、皮踏鼻(たび。「足袋」「踏皮」「単皮」とも。最初は白皮製であったが、木綿の普及に伴って木綿製に替わった)を一足、手に持ってきて、「沢彦和尚は、踏鼻を持っていないのか? これを履きなさい」(今で言えば、「裸足ではなく、スリッパを履きなさい」って感覚か。)と言いながら、紐を解いて渡した。沢彦和尚は、「『沓新しといえども、冠となさず』(上下貴賤の身分階級を守り、その分を越えてはならないという事の例え)と申します。(公家ならともかく、僧侶は裸足が原則で、)僧侶に踏鼻は過ぎたる物でございます」と言いながらも、履こうとしたが、沢彦和尚の足は太くて逞しく、履きづらいように見えたので、織田信長は、「どれどれ、私が履かせてやろう」と言って手伝って履かせたと、後の世までも、皆、言い伝えた。この時代までは、田舎では、僧は、皮踏鼻を履かないものだと考えていたが、八宗、九宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律宗の「南都六宗」に、天台、真言宗の「平安二宗」を加えて「八宗」といい、さらに禅宗を加えて「九宗」という。ここでは「全ての宗派」の意)の僧たちがこの様子を見ていて、織田信長が「僧も、皮踏鼻を履いても差し付けない」と言ったので、その後、履くようになった。
 こうして、能が終わると、織田信長は、沢彦和尚を奥の間へ連れていき、「朱印の印文を決めた褒美として、尾張国海西郡内に、寺領として200貫文を寄付する」という判物(宛行状)と狩野古法眼(狩野元信。父子共に「法眼」の位を授けられている時、その父の方を「古法眼(こほうげん)」という)が描いた「秋の野の百菊の屏風」一双を与えた。沢彦和尚は、「心肝(しんかん)に銘じて(深く心底にしるて)、有り難く頂戴いたします」というと、織田信長は、「今回、朱印の印文は、大変気に入っている。尾張国守山村木賀崎の長母寺(愛知県名古屋市東区矢田)は、治承3年(1179年)創建の古寺だと聞いている。この寺もやろう」直接言い、「(この寺の件は、今、思いついたことであり、宛行状を用意していないので)判物(宛行状)は追って遣わす」とのことであった。沢彦和尚は、今に始まらず、今までのお恵み、感謝至極でございます」と言って、翌朝、尾張国の寺へ帰った。「これは、僧にとっての栄誉である」と僧も俗人も、皆、伝えた。
 その後、お礼に、沢彦和尚が岐阜へ行くと、織田信長は喜んで、「小侍従の屋敷に、一日、二日、滞在しなさい」と言った。織田信長は、小侍従の屋敷へ、幸若太夫を派遣し、幸若舞を舞わせて、もてなした。沢彦和尚が、「かれこれ五、六日も滞在したので、そろそろお暇を頂戴したい」と言うと、沢彦和尚の宿所(小侍従の屋敷)に織田信長の使者が来て、(餞別(旅費)として)金子一枚をくれた。そして、沢彦和尚は、尾張国へ帰国した。
 沢彦和尚は、織田信長に「近々、また、岐阜へお越しください」と言われていなので、程なくして岐阜へ行くと、早速、織田信長と対面し、世間話などを数時間した。「小侍従の屋敷に泊まって、明朝、岐阜城へ来られよ」との仰せに従い、沢彦和尚が、次の日に、岐阜城へ行ったところ、おもてなし(食事と酒)された。織田信長は、「これ以降、檀那に成る」と言い、「岐阜に寺を新たに建てよう」と約束した。
 こうして、帰国の時は、また、沢彦和尚の宿所(小侍従の屋敷)に織田信長の使者が来て、(餞別(旅費)として)金一枚をくれた。

一、以上の「百菊の屏風」は、沢彦和尚より、天正13年(1585年)頃、織田長益(ながます)へ贈られた。織田長益は、織田信長の弟で、有楽、如庵(うらく、じょあん)と号した。 千利休に茶道を学び、「利休十哲」の一人にも数えられる文化人である。

【解説】

 織田信長は「天下布武」の朱印が、大層気に入ったようである。

 織田信長の岐阜城在城時代(1567-1576)は、このように仲がよかったが、安土城時代(1576-1582)は仲が悪くなったのか、安土城へは呼んでいない。

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