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『信長公記』「首巻」を読む 第16話「村木の砦攻められしの事」

第16話「村木の砦攻められしの事」

一、さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原の山岡構へ攻め干し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是れを根城にして、小河の水野金吾構へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河、より丈夫に取出を相構へ、駿河衆、楯籠り候。並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり、小河への通路を取切り候。
 御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣はされ候。道三かたより、正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五等を相加へ、「見及ぶ様体、日々注進へ」と申し付け、同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候き。
 居城・那古野近所、志賀、田幡両郷に陣取りをかせられ、廿日に、陣取り御見舞として、信長御出で、安東伊賀に一礼仰せられ、翌日御出陣候はんのところ、一長の林新五郎、其の弟美作守兄弟、不足を申し立て、林与力、あらごの前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、「いかゞ御座候はん」と申し候へども、「左候へども、苦しからざる」の由、上総介仰せられ候て、御働き。其の日は、ものかはと云ふ御馬にめし、正月廿一日あつたに御泊り、廿二日以外の大風に候。
 「御渡海なるまじき」と、主水、楫取りの者、申し上げ候。「昔の渡辺、福島にて逆櫓を争ふ時の風も、是れ程こそ候へめ。是非において御渡海あるべきの間、舟を出だし候へ」と、無理に廿里計りの所、只半時計りに御着岸。其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。

一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り候村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、北は節所、手あきなり。東は大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばかり、かめ程にほり上げ、丈夫も構へ候。
 上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り候て、御人数付けられ、若武者ども、我劣らず、のぼり、撞き落とされては、又あがり、手負死人其の数を知らず。信長堀端に御座候て、「鉄炮にて、狭間三ツ御請取り」の由仰せられ、鉄砲取りかへ取りかへ放させられ、上総介殿、御下知なさるゝ間、我も我もと攻め上り、塀へ取り付き、つき崩し、つき崩す。
 西搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口、是れ又、攻めよるなり。外丸一番に六鹿と云ふ者乗り入るなり。
 東大手の方は水野金吾攻め口なり。城中の者働く事、比類なき働きなり。
 然りと雖も、透(すき)をあらせず攻めさせられ、城内手負死人、次第次第に無人になる様に、降参申し候。尤攻め干さるべき事に候へども、手負死人塚を築き、其の上、既に薄暮に及び候の間、侘言の旨にまかせ、水野金吾に仰せ付けらる。信長御小姓衆、歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。辰の刻に取り寄せ、申の下刻まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。御本陣へ御座候て、「それも、それも」と御諚なされ、感涙を流させられ候なり。
 翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是れより那古野に至つて御帰陣。

一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。
 安藤伊賀守、今度の御礼の趣、難風渡海の様体、村木攻められたる仕合、慇に道三に一々物語申し候ところに、山城が申す様に、「すさまじき男、隣には、いや成る人にて候よ」と、申したる由なり。

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