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『信長公記』「首巻」を読む 第47話「堂洞の砦攻めらるゝのこと」

第47話「堂洞の砦攻めらるゝのこと」

一、猿はみより三里奥に、加治田の城とてこれあり。城主は佐藤紀伊守、子息・右近右衛門とて、父子、御身方として居域候。長井隼人正、加治田へ差し向け、廿五町隔て堂洞と云ふ所に取出を構へ、岸勘解由左衛門、多治見一党を入れ置き候。
 さて、長井隼人、名にしおふ鍛冶の在所関と云ふ所五十町隔て、詰め陣にこれあり。
 さ候へば、加治田迷惑に及ぶの問、九月廿八日、信長御馬を出だされ、堂洞を取り巻き、攻められ候。三方谷にて、東一方尾つゞきなり。
 其の日は風つよく吹くなり。信長かけまはし御覧じ、御諚には、「塀ぎはへ詰め候はゞ、四方より続松をこしらへ、持ちよつて、投げ入るべく候」旨、仰せ付けられ候。
 然而、長井隼人、後巻として、堂洞取出の下、廿五町山下まで懸け来なり。人数を備へ候へども、足軽をも出ださず。
 信長は諸手に御人数備へられ、攻めさせられ、御諚の如く、たえ松を打ち入れ、二の丸を焼き崩し候へぱ、天主構へ取り入り候を、二の丸の入口おもてに、高き家の上にて、太田又助、只壱人あがり、黙矢もなく射付け候を、信長御覧じ、「きさじに見事を仕り候」と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行重ねて下され候えき。
 午剋に取り寄せ、酉の刻まで攻めさせられ、既に薄暮に及び、河尻与兵衛、天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門、つゞいて乗り入るところ、岸勘解由左衛門、多治見一党働の事、大形ならず、暫の戦ひに城中の人数乱れて、敵身方見分けず、大将分の者、皆、討ち果たし畢。
 其の夜は、信長、佐藤紀伊守、佐藤右近右衛門両所へ御出で候て、御覧じ、則ち、右近右衛門所に御泊り。父子感涙をながし、「忝し」と申す事、中々詞に述べがたき次第なり。
 翌日、廿九日、山下の町にて頸御実検なされ、御帰陣の時、関口より長井隼人正、並に、井口より龍興懸け出でられ、御敵人数三千余あり。信長御人数は讒(あしざま)に七、八百これに過ぐべからず。手負・死人数多これあり。退かれ候所はひろ野なり。「先、御人数立てられ候て、手負の者雑人どもを引き退けられ、足軽を出すやうに」、何れも馬をのりまはし、かるがる引き取つて、のかせられ候。御敵ほいなき仕合せと申したるの由に候。

【現代語訳】

一、猿啄より3里(12km)奥に、加治田城(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)があった。城主は、織田方の佐藤忠能、忠康という父子である。美濃方の長井道利は、加治田城を攻めようとして、25町(2.7km)離れた堂洞という所(岐阜県加茂郡富加町夕田)に砦を構へ、岸信周と多治見一党を入れた。そして、長井道利自身は、鍛冶の村として有名な関という所に、50町(5.5km)離れて着陣した。
 こういう状況からして、「加治田城を攻めようとしているに違いない」と判断されたので、織田信長は、9月28日に出陣し、堂洞城を取り巻いて攻めた。堂洞城の三方は谷で、東だけが尾根続きであった。その日は風が強く吹いていた(火災が発生したらすぐに延焼するであろう)。織田信長が馬で駆け回って状況を見て、「塀際に詰め寄って、四方から松明を作って持ち寄り、投げ入れよ」と命令した。
 一方、長井道利は、後詰(後方支援)として、堂洞城の下25町の山麓まで進軍した。とはいえ、軍勢を配備しても、足軽すら出撃しなかった。
 織田信長は軍隊を分けて配備して攻めさせた。先の命令のごとく、松明を打ち入れ、二の丸を焼き崩すと、敵は皆「天主構へ」(本丸)に入ったので、二の丸の入口表の高い建物(櫓?)の上に太田牛一だけが上り、無駄矢なく射かけたのを織田信長が見て、「小気味良い見事な働きである」と、三度も使者をよこして褒め、領地も増やしてくれた。
 午の刻(正午前後)に攻撃を始め、酉の刻(午後6時前後)まで攻め、既に薄暮となっていた。河尻秀隆がまず本丸に突入し、次に丹羽長秀が突入したが、岸信周、多治見一党の戦いぶりはめざましく、暫くの戦いに、城中の軍勢は入り乱れて、敵味方の見分けが出来なかったが、大将級の者は、皆、討ち果たした。
 その夜、織田信長は、佐藤忠能、忠康のもとへ出かけて対面し、佐藤忠康のもとで泊った。佐藤父子感涙を流し、「忝(かたじけな)し」と言う事さえ、なかなか言葉にできないようだった。
 翌・9月29日、織田信長は、山下の町で首実検した。帰陣の時、関(関市)より長井道利が、同時に、井ノ口(岐阜市)より斎藤龍興が出陣してきた。敵軍の兵数は3000人以上であった。織田信長軍の兵数は、わずかに7、800人くらいで、しかも負傷者や死者も多くいた。撤退した場所は、広い野原であった。「先ず、隊列を整え、負傷した雑人(小荷駄などの非戦闘員)を先に逃し、後尾に足軽を置いて追撃に備えよ」と馬を乗り回して指示し、やすやすと撤退した。敵(長井道利、斎藤龍興)は「本意無き仕合せ」(残念な巡り合わせだ)と悔しがったという。(もう1日早く出陣して、織田信長が堂洞城を攻めている時に、織田信長を攻めれば倒せたのに・・・倒そうと思ってやって来たら、手際よく逃げられてしまった。)

【解説】

※堂洞城(岐阜県加茂郡富加町夕田):現在はゴルフ場(クレセントバレーカントリークラブ美濃加茂)。城主・岸勘解由左衛門信周を明智光秀の実父とする説もある。
※加治田城(岐阜県加茂郡富加町加治田):475号線のトンネルの上。

「堂洞城は蜂屋の領主岸勘解由のたてこもった砦であります。天下平定を目指して尾張から美濃に攻め入った織田信長は、永禄八年(1565年)八月にこの砦を攻撃して落城させました。初め信長は、勘解由の武勇を惜しんで投降を勧告しましたが、主君である斎藤氏との義を重じた勘解由はこれを固く拒んだため戦いとなり、信長は八月二十六日高畑山に本陣を構え、先に信長に通じていた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田・蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始しました。勘解由の城兵と共に信長軍を迎え撃ち、辰の刻午前八時から申の刻午後四時までの八時間にわたって抗戦しましたが、長男信房は討死し、敵兵が内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てました。ここにあります岩は、八畳岩と言い勘解由や城兵たちがこの岩の上で月見の宴を催したと伝えられています。」(現地説明板)

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