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[回転寿司屋] かっぱ寿司の歴史

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まあに店主

今回は、回転寿司の店舗を全国展開する、かっぱ寿司の歴史について解説します。
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テトリス

 
クラシック


中部の主


後にかっぱ寿司の創業者となる徳山淳和(とくやま じゅんな)さんは、1973年8月から長野県長野市で、ショッピングセンター・スーパーで販売される寿司の製造・ミスタードーナツのフランチャイズ展開を行っていました。当時の長野県長野市では、イトーヨーカ堂やダイエーなどの大型スーパーが流行り、道路の整備・鉄道の電化(蒸気機関車使用から電車使用への移行)なども進み、人が住みやすくなり、日本の高度経済成長期の1965年から長野市の人口が増え始め、1975年には35.0万人ほどになり、当時の長野県全体の人口(201.8万人)の17%以上が集まる市になっていました。

長野市は凹んだ盆地なので、江戸時代から裾花川や千曲川など多くの河川が多数流れ込んでおり、洪水が起きやすく、洪水が起きる度 栄養素を含んだ川の水が周囲にぶちまけられ土地が肥沃になるので、主に耕作地として利用されてきました。水害が頻繁にあるので もともと人が住むには向いていない土地でしたが、長野市は重要な位置にあるため、江戸時代、新潟県 佐渡島の金銀・生活必需品の輸送、参勤交代のために使う北国街道の宿場町として栄え、明治以降も物流の要衝とされ商業の街となりました。

江戸時代が終わって明治時代になってからも度々 水害が起きたので、治水工事が行われました。低平地が多く水害が多いので土木工事の技術が進んでいるオランダなど、外国からも優秀な技術者を招いたり・内務省が資金援助をしたりと政府も協力したので、工事の技術が上がったのですが、やはり様々な河川が流れ込む長野市では水害を完全に抑えこむことは難しく、時代が大正に移っても 度々水害が起きました。
しかし、明治29年(1896年)から始められた千曲川の工事(工事によって川幅を狭くし、川の流れをはやくして土砂が海に押し流されるようにする工事)のおかげで、千曲川は10尺~20尺(約3~6m)の水深を保てるようになり、商船が通行しやすくなりました。道路・鉄道などのインフラがあまり整っていなかったため、陸運があまり使われなかった明治~昭和初期には、物流を支えるのは船だったので、商船が通行しやすくなると物流が盛んになり、長野市には和紙問屋 越前屋や木炭卸売業者 高沢産業など商社が沢山できました。また、販売先が増えたので長野県では養蚕・製糸がさらに盛んになり、長野県は「蚕糸王国」と呼ばれるようにもなりました。

日本を含めた世界が戦争ばかりしていたため、情報機関がやられ 外国の情報が入ってこなくなり、事業者達がヨーロッパの生産力がいつ回復するかの判断をミスして
「ヨーロッパはまだ復興していないので、その地域の国々の生産力は弱く、ヨーロッパ諸国はもっとモノを輸入する必要があるので、ヨーロッパに輸出すると儲かる」
と考えた結果、日本国内の工場がモノを実際の需要以上に過剰生産してしまうと言うことが起きました。無駄なコストが大量に発生したことが原因で、企業の業績がガタ落ちし それらの企業の株価も3分の1ほどに暴落し、銀行の取り付け騒ぎなど経済危機が起きました(1920年からの戦後恐慌)。ヨーロッパ生産力の回復により、それまで国内の主力産業であった生糸の輸出も少なくなり 生糸の値段が半値以下になってしまいました。
さらに、1923年に関東大震災と巨大台風が同時発生し、日本経済が絶望的になってしまったので、円安で人々の生活が苦しくなりました。当時の大蔵大臣 井上準之助が「被災地域の企業・住民が債務者となっている金融債権の支払期限を1ヶ月間猶予する」ルールを作ったり、その後「地方銀行が買い取った手形(発行主が支払期日に、相手に手形満額を支払うことを約束した書類)を、日本銀行が震災から2年経った1925年9月までにさらに買い取り 地方銀行に支払いを行う、このとき政府からも日本銀行を資金援助する」事により、448行中343行が被災した東京市内の銀行や 担保物件の焼失による貸出金の回収難に苦しむ地方銀行、建物・家具・機械設備等が壊れ 計45.7億円の損害が出 経営難になってしまった民間企業を救おうとしました。しかし、地方銀行が買い取った手形には、全く支払われる見込みのない 信用なしの悪質手形が大量に含まれていました。このような悪質手形を大量に買い取ることはいくら日本銀行でも難しく、日銀は頑張って、地方銀行から4億3000万円分ほど手形を買い取りましたが、全ては流石に買い取ることができず、2億円ほど買い残してしまいました。ついに国は昭和2年(1927年)3月、この2億円の買い取りを実行するために、これまでなかったほど大きな金額分の国債(国の借金の証書)を発行し、増税などで資金を調達して10年後にお金を返すと約束しました。ところが、もはやこの頃になると、国民から「どうせ国債で資金を集めても、それを国民のために使うんじゃなくて、鈴木商店や台湾銀行など経済界の大物への融資に使うんだろ」と陰口をたたかれるなど政府は完全に信用を失っていたので、国債を発行しても資金を集めることができず、手形の買い取りが進みませんでした。
それだけではなく、関東大震災後 慌てた日本政府が外国から高い利回りで約5.5億円分の資金を借り 大量輸入を行い、国内に安い外国産のモノがあふれかえっている状態になったので、国内の産業が壊滅的な打撃を受けました。その上1930年代から日本の主要貿易相手であったアジア諸国(当時 ヨーロッパの支配下)・アメリカ合衆国の経済がガタガタになっていたので(1929年に始まった世界恐慌)、外国に輸出することも困難になり 日本の輸出額は「1929年:21.5億円」「1930年:14.7億円」「1931年:11.5億円(震災前の1922年は16.4億円)」と急減しました。
1931年12月には、犬養毅で有名な犬養内閣が金輸出禁止・金本位制(いつでも金と紙幣を交換することができる制度)の停止を行い、そのために円に魅力が無くなり 売られ円安となりました。すると、輸出拡大で国内産業が活発になり、当時日本の主力輸出品であった養蚕業が盛んな長野で生産される生糸・絹織物も、多く作られるようになりました。世界恐慌の影響で、銀元(銀で作られた、中華民国で採用されていた貨幣)の材料である銀の価値が下落し、結果 輸入品を買うために多くの銀元が必要になったので、中国の人々の生活が苦しくなりました。そのため、農家の人々が片手間にやることができる養蚕が盛んになり、1933年頃から、中国から生糸が沢山輸出されるようになりました。そのため、生糸の価格が下落し 「昭和7年(1932年):60kg=700円48銭」から「昭和9年(1934年):60kg=534円34銭」となり、それをきっかけに生糸価格は低迷を続けました。日本国内の生糸生産量も1930年代半ばから増加しなくなりましたが、1935年にも生糸は、日本の輸出総額の15%以上を占めるなど、主要輸出品であり続けました。長野市では養蚕・製糸業が盛ん、物流業も盛んだったので雇用が沢山あり、他県から長野市に移り住む人も多かったようです。

その後、日本は太平洋戦争に突入することになりましたが、長野市は本格的に軍事利用されなかったのでアメリカ軍にあまり空襲されず、経済的被害が比較的軽かったようです。終戦の3ヶ月後には早くも、長野市で新たな農耕地が開墾された記録があり、また1951年1月には水産物の卸売業者 マルイチ産商が長野市で設立されたりと雇用が増えました。国内で家電製品や自動車などの製造業が盛んになるに従い、東京や大阪など都市部への人口移動が進みましたが、農業・小売業などの雇用を増やしてきた長野市には人が定着し、終戦から2年後の1947年から1955年までの間、約30万人の人口をキープすることができました。

そのため長野市は、日本が高度経済成長期に入った1955年頃から、市内に百貨店や卸センターなどの物流拠点、工場などを誘致できるようになりました。後にかっぱ寿司の創業者となる徳山淳和(とくやま じゅんな)さんが、ショッピングセンター・スーパーで販売される寿司の製造・ミスタードーナツのフランチャイズ展開を行っていた1973年~1978年には、長野市ではイトーヨーカ堂やダイエーなどの、大型スーパーが流行っていたので、徳山さんの仕事は大忙しでした。十分な売上高・利益を上げることができたので、1979年8月に回転寿司店「かっぱ寿司」第一号店を長野市の西和田にオープンすることができました。
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大勝と大敗


スーパーで販売される寿司の製造販売を行っていた経験から、長野県では魚のすり身と茹でたイカを細かく切ったものを、マヨネーズで和えたサラダ軍艦が人気であると言うことを知っていた徳山さんは、それまで寿司屋では従業員のまかないとしてしか食べられていなかったサラダ軍艦をメニュー化するという決断をしました。するとこれが大成功、ちょっとしたお祝いの日に サラダ軍艦だけをかっぱ寿司店舗で大量に購入して持ち帰り、家庭で食べる客が大勢現れ、かっぱ寿司は売上高・利益を増やし2号店を長野市吉田に作る事ができました。
また、物流の要衝であった長野市には、1972年頃から寿司を食べる習慣があったみたいですが、長野県は内陸にあるので海から遠いという事もあり、長野市の周りの村では生の海産物を食べる習慣がなかったため寿司屋がありませんでした。1980年代前半は パッと手軽に昼食を済ませたいサラリーマンが回転寿司屋の主な客なので駅前に店を出すべきと考えられがちだったのですが、長野市の周りの地域ではまだ寿司を食す文化が無かったので、長野市の駅前に回転寿司屋を開店しても 長野市の周りの地域の客が入らず売上・利益が十分に出ないので、店の家賃が払えないと考えられていました。そのため、1980年代前半の長野市ではあまりイートインの回転寿司屋がつくられておらず、かっぱ寿司のライバル店が存在しなかったということも、かっぱ寿司が売上・業績・店舗数を増やすことが出来た重要な理由です。

1983年8月までに長野県に8店舗出店したかっぱ寿司は、関東地区にも進出するため、1984年11月に埼玉県に実験的に関東地区第一号店をオープンさせたり、安くするため1985年4月 長野県上田市に、1986年4月 埼玉県大宮市に、寿司ネタをカットして 一枚ずつ分けて冷凍する工場や、シャリをすしロボットに握らせ一塊ずつ分けて冷凍する工場を作りました。各店舗にそれらの冷凍ネタと冷凍シャリを運び、解凍して組み合わせ寿司にすると言うやり方を始めました。
1970年代半ばから液体窒素を使った冷却システムが開発され、大西洋でとれたマグロを日本の市場で手に入れることができるようになり、また脂が多く腐りやすいトロも寿司屋などで食べやすくなったので、以来 マグロの値段が下がり100円回転寿司の人気ネタとなりました。マグロの値段が下がったと言っても、1989年のマグロの値段は4141円/kg、同年のカジキの値段 691円/kg、同年のさんまの値段 880円/kgというように、マグロの値段はずば抜けて高いので、マグロのトロは原価率が高く、沢山売れても儲けが少ないというのが全ての回転寿司屋の課題でした。かっぱ寿司は、先述のような 工場で作った冷凍シャリと冷凍ネタを解凍して組み合わせ出すという手法で製造コストを下げることにより、トロの寿司を100円で提供して十分な利益を出すことに成功しました。また、店舗での作業が簡単なので完璧にマニュアル化されており、従業員をあまり教育する必要が無くコストがかからないという、圧倒的な利点もありました。社員教育にお金をかけていないから接客態度が良くない、ときどき解凍不完全な半分凍ったシャリや、解凍しすぎで生暖かくなったネタが出てくるので美味しいとは言えないなどと苦情も一部で上がったようですが、当時寿司というとまだまだ高級料理というイメージで、格安で寿司が食べられるなら品質はあまり問われないという時代だったので、かっぱ寿司は売上・利益を出すことができました。
そして同社は、1988年に埼玉県に工場を作ったり、1991年に不動産仲介(不動産の売買や賃貸の際に、買主・借主と売主・貸主との間の交渉を助ける仕事)の会社を買収して、店舗展開をしやすくすることができました。そのためかっぱ寿司は、1983年に長野県に8店舗目の店を出したばかりだと言うのに、1993年8月にはもう中部・関東地方を中心に100店舗を運営するようになり、翌年 株式を店頭登録できました。

1993年3月に長野県から中央自動車道(東京都から山梨県・愛知県までを結ぶ高速道路)までをつなぐ高速道路(長野自動車道)が全線開通し、このため東京築地から新鮮な魚を購入しやすくなったので、長野県では廻るすし広場あっちゃん、松栄寿司などの大型寿司店が次々に作られました。
もしかっぱ寿司が関東に店舗展開せず、長野県内だけで開店していたとしたら、かっぱ寿司は 廻るすし広場あっちゃんや松栄寿司に客を取られてしまい、資本金が3000万円以上・株主数が250名以上必要な店頭登録をする事はできなかったかも知れません。

さらにコストダウン・店舗展開を進めるために、かっぱ寿司は、1996年9月に兵庫県に西日本地区の物流センターを、同年12月に埼玉県に食材工場と関東地区の物流センターを新設し、従来の回転寿司店では客席50席が標準とされているところを、中部・関東地方の食材工場から効率よく大量に食材を運べるかっぱ寿司は、客席が120席もある大型店を1999年から関西・関東で展開できるようになりました。
2000年代に入り、スシロー・くら寿司・はま寿司などの競合が急速な店舗展開をはじめ、2005年から2009年にかけて、かっぱ寿司の売上高が下がりとうとう2008年にはスシロー・くら寿司に抜かされてしまいました。

かっぱ寿司は、スシローが回転寿司総合管理システム(皿にICチップを付けデータを分析することで、どの客が何のネタをいつレーンから取ったのかを正確に知り、どのネタが人気なのか・一人の客は何枚の皿を消費するのかを予測できるようになるシステム。これを使えば 作っても消費されない余計な寿司をなるべく作らないようにする事ができ、従業員の手間を省き 人件費の削減ができる)を導入したように、くら寿司が水回収システム(テーブルやカウンターのわきにある投入口に食べ終わった皿を入れると、皿が水流に乗って洗い場まで運ばれるシステム。これを使えば、従業員が皿を回収する手間や 食べ終わった皿にこびりついた米をはがす手間がなくなるので、人件費削減になる)を導入したように、機械設備の導入をせず、設備投資コストを低く抑えて営業利益(売上高-原価-販管費)を上げようとしました。また、他の外食店舗が出店しながらない 他の飲食店舗が入っているショッピングモールが近くにある場所にも出店するなど、かっぱ寿司は店舗数を思い切って増やし、ネタに使う魚介類などを大量に仕入れることにより価格交渉力を上げたり、ネタの質を落として仕入れ値を安くしました。その結果、かっぱ寿司の原価率がくら寿司・スシローより10%ほど低くなり、それにより2010年 かっぱ寿司の営業利益がくら寿司・スシローより高くなりました。しかし、「残業時間は年間360時間まで」と定めた労働基準法の遵守が叫ばれるようになり、これを実現するのが難しい外食企業で働きたい人がおらず、外食業界では人手不足となり人件費(給料など)を上昇させざるを得なくなりました。競合のように機械や新システムを導入して、人件費を削減する工夫をしなかったかっぱ寿司は、だんだん営業利益を落とし、2015年3月期通期決算でついに134億円を超える大幅赤字(最終利益)を出してしまいました。
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コロワイドメンバーとして


2014年10月にかっぱ寿司はコロワイドに買収され同社の子会社となりました。コロワイドは「注文を受けてから提供までに多少時間がかかっても質を良くすべき」と考え、2014年から、かっぱ寿司のすしネタの加工を工場ではなく店舗で行うように変えさせ、2015年から、シャリをかっぱ寿司店舗の厨房で注文を受けてから作ると言うことも、一部店舗で始めさせました。その結果、売上高・営業利益を出し「2018年3月期通期決算:3.8億円」「2019年3月期通期決算:6.3億円」と営業利益を驚異的に伸ばし、豊富な資金を手に入れたかっぱ寿司は、 それまでかっぱ寿司はサイドメニューが充実しておらず 遅れていると言われていましたが、2018年から北海道や京都など全国各地の有名ラーメン店監修の「本格ラーメンシリーズ」や、産地や素材にこだわった抹茶スイーツやガトーショコラなどの「Rich Sweetsシリーズ」などを始めることができました。またかっぱ寿司は、2019年8月には火を吹く辛さの『シビ辛ソース』をかけたまぐろのお寿司を、制限時間内にどれだけたくさん食べられたかを競い、1位~3位の人にはかっぱ寿司お食事券を贈るなど面白い企画も行うことができました。

2020年1月からコロナ禍が始まり、外食需要が減少しました。その中でかっぱ寿司は、Web・アプリでテイクアウトの注文をすると20%オフで購入できるようにし、またうなぎや 高タンパクで低脂肪なので夏の疲労回復に良いとされる本マグロなど厳選寿司をつめた「真夏のいまだけセット」や、家族で楽しめるように手巻き寿司セットとソフトドリンクを合わせた「家族まんぷくセット」などテイクアウト限定の新商品を次々と出し、イートインの需要が減った代わり テイクアウト客数を増やして売上を確保しました。また、かっぱ寿司はコロナ禍でセルフレジや配膳ロボットなど非接触型サービスの導入を検討しました。

コロナの影響で 自宅で動画を見たりゲームをする人が増え、スマートフォンやゲーム機などの需要が高まり、そちらに半導体が大量に使われるので、自動車や家電製品などの半導体の生産が追いつかなくなり、これらの値段が驚異的に跳ね上がる経済事件が起きました。例えばアメリカでは、2022年1月の中古車の平均価格は2020年4月の2倍にまで跳ね上がり、それにより物流が滞ったのでモノの生産が上手くいかなくなり、さらにトランプ大統領(2017年1月-2021年1月在任)の移民抑制策により、移民で人手不足を補う事ができなくなったこともあり、アメリカ経済が回らなくなったのでドルが売られドル安となり、2007年には841.75ドル/トロイオンスだった金の値段は2021年には1900ドル/トロイオンスを超し、まだまだ高くなる勢いでした。これはヤバいドル安を食い止めねばと考えたアメリカ政府が、2022年3月にゼロ金利政策を解除して以降、円が売られてドルが買われ 円安ドル高が進みました。

このため、食料品の大半を輸入している日本では食料価格が高騰し、日本人はあまり高い食材を買えなくなりました。それでも、手頃な値段で なるべく美味しいものを食べたいというニーズはあったので、「かっぱ寿司が2021年5月から実施しているシャリを山形県産のブランド米に変えて、引き続き1皿税抜100円を維持する」・「かっぱ寿司が2022年9月から1皿税抜100円の商品をさらに30種類追加する」という改革がウケ、かっぱ寿司の売上高は「2022年3月期:529.8億円」「2023年3月期:563.6億円」と増えました。
売上高を増やす工夫だけでなく
[「2019年10月:58店舗」「2023年9月:292店舗」と、店舗の回転レーンを無くし 全て注文をもらってから商品を製造する"フルオーダー店舗"を増やし、廃棄ロスを減らす]、
[2021年から一部店舗を改装し、セルフレジや「受け取り専用ロッカーの端末に客がQRコードをかざすとロッカーが自動で開いて、ロッカーの中から注文していた商品を受け取る事ができるのでテイクアウト商品の受け渡しに手間がかからない設備」の導入を行い人件費の削減をする]、
[いくら醤油漬けやうなぎ蒲焼きなど水産加工物を製造・販売するバンノウ水産の商品を、かっぱ寿司が運営するインターネット通販サイトで販売し、バンノウ水産の売上増に貢献する代わり、かっぱ寿司が2018年2月からマグロやサーモンなど人気ネタをふんだんに使った海鮮丼を税込690円という格安で販売できるほど、かっぱ寿司にバンノウ水産の水産加工品を安く売ってもらい仕入れ値を下げる]、
などかっぱ寿司はコストを下げる企業努力も続けました。そのため、かっぱ寿司を運営するカッパ・クリエイトの営業利益はコロナの影響を受け2021年3月期から赤字が続いていましたが、2023年3月期 通期決算から赤字が縮小し、2023年7~9月にかっぱ寿司既存店舗45店舗を新たに改装しセルフレジ・受け取り専用ロッカーを導入したこともあり、2024年3月期 通期決算では再び黒字に戻る予想が出ています。

かっぱ寿司が、長く働くスタッフや昔取引していたメーカーに作り方を詳しく聞いて2024年3月21日から、かっぱ寿司が大きく成長するきっかけとなったサラダ軍艦を発売当初の味でつくり期間限定で発売したところ、大変話題となり、テレビやYahoo!ニュースでも特集され、ガリとアナゴの甘いタレをかけると美味しい・わさびとアナゴの甘いタレをかけても美味しいと、サラダ軍艦の味変メニューも話題となりました。
かっぱ寿司は現在、魚介だけでなく肉料理にも力を入れており、2024年の5月9日~6月2日の間、日本の誇る調味料 塩麹にこだわっている有名焼き肉店「格之進」に開発を手伝ってもらい「国産牛肉と岩手県のブランド豚肉のハンバーグにぎり」や「黒毛和牛カレー」をメニューに加えるようです。

今後 かっぱ寿司社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。

次回は、回転寿司店を東日本で展開する、元気寿司の歴史について解説します。
お楽しみに

まあに店主

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その100円が、まあにのゼンマイを回す