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[回転寿司屋] はま寿司の歴史

いらっしゃいませ。情報屋『まあに』へようこそ!
いつも変わらない、安定の「経済の話×飲食店の詳しい歴史」味です!

まあに店主

 今回は、回転寿司の店舗を全国展開する、はま寿司の歴史について解説します。
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テトリス

 
クラシック


時代


後に寿司屋 はま寿司を運営することになるゼンショー社創業者の小川賢太郎さんは、真面目で頭が良かったため、20歳の時の1968年に東京大学に入ることができました。

当時はベトナム戦争の真っ最中で、南ベトナム政府に資金援助をしたり指揮官を派遣していたが効果がなく、じれったくなったアメリカ軍が「民主主義を守る為 共産国をやっつける」を口実に直接介入し、毎日空爆・陸軍投入を行っていた時代でした。
こちらに伴いアメリカは膨大な軍事支出を行わなくてはいけなくなったり、兵器や食料(兵糧)を調達するために日本や韓国などアジア諸国からそれらを買わなくてはいけなかったので、アメリカから大量のドルが流出してしまいました。ドル流出を危惧したジョンソン大統領が、1967年6月にソ連の首相と会談し 米ソ両国のミサイル開発の制限について話し合いを始めるきっかけをつくって アメリカ軍が戦っている北ベトナム軍に軍事支援をしていると思われるソ連の力をそごうとしたり、自国の負担を軽減するために同盟国に出兵を要請したりしましたが上手くいかず、ドル流出は容赦なく続き アメリカの経常収支はみるみる悪化していきました。
ベトナム戦費の増大により、アメリカ政府が法人税や所得税を引き上げ 特に貧困層に圧力がかかり、1967年にキング牧師などの社会運動家が声を上げ始め、アメリカで大規模な反戦集会が開かれました。そちらが日本の新聞・テレビなどで報道されると、日本国内でもアメリカが宣伝している民主主義って本当に正しいのか という疑念が生まれ、1960年代末は若者を中心に全共闘運動など社会主義活動が盛んになっていた時代でした。

ベトナム戦争で、アメリカ軍の爆撃により田畑を焼かれ民間人が飢えたり、アメリカ軍がまいた枯れ葉剤により水・農作物が汚染され食の安全が脅かされたと聞いた小川さんは、打倒アメリカ・打倒 国内親米派の全共闘に共鳴し、その中で活動していた一人だったようです。特にこの頃、日本は高度経済成長のまっただ中にあり、環境対策の整備が全く追いついていなかったので公害も沢山発生し、1964年には水俣病の原因が肥料工場の排出するメチル水銀だったと証明され、1971年にはイタイイタイ病の患者・遺族がイタイイタイ病の原因と証明されたカドミウムを放出していた三井金属鉱業を訴え勝訴し、企業に汚染土壌の復元が義務づけられましたが、企業が「イタイイタイ病の一部は自然汚染のせいでもあるから、我々だけの責任ではないですよ」と言い訳をして復元のための費用を出さないなどしたため、なかなか環境改善が進みませんでした。このような問題もあり、企業が強い資本主義は本当に正しいのか という考えが流行った時代でもあったので、小川さんが大学生活を送っていた1960年代末は、全共闘に代表される学生運動が盛んな時代でした。

学生運動に明け暮れていましたが、勉強する内に トップが権力者として居座り続け「労働者」から離れてしまったため、ソ連は腐敗してしまったんだと考えるようになった小川さんは、労働者にならなければ正しい社会主義革命はできないと思うようになりました。大学を3年で中退し、港湾労働の会社に入社した小川さんは、船荷の積み込み作業の仕事をしていましたが、危険な仕事だったので、作業中大けがをして2回も入院したそうです。毎日 膨大な荷物を積み込んでいる内に 資本主義の力に圧倒され 社会主義革命は起きにくいと考えた小川さんは、港湾労働の仕事を辞め、
「規模の大きな会社を作って巨大な雇用を創出し、さらに安全な食べ物を安く提供する事により、飢餓の心配のない平和な(食の安全が確保された)世界を作ろう。社会主義革命を起こすために闘うんじゃなくて、資本主義のシステムを利用して世界を変えよう」
と考えられ、会社を作るために 会社の資金繰りを分かりやすくまとめた簿記をかけるようになろうと、通信教育で勉強を始めました。そして小川さんは、1978年頃に中小企業診断士の資格を取得されました。資格を取ったとき、小川さんは29歳になっていました。

セブンイレブンは1978年、日本中で「海苔がしっとりしたおにぎり」が主流だった時代に、「海苔がパリパリのコンビニおにぎり」の販売を始めブレイクして 店舗拡大を期待され、首都圏を中心に店舗数を増やしました。店が多すぎて どの店で何がどれだけ売れているかの把握が難しくなり、POSシステム(消費者が商品をレジで購入すると それが売れたというデータが本社に送られるシステム)の導入が検討されるまでになりました(POSシステムは1982年10月から、各店舗に導入された)。
1970年にファミレス すかいらーくやケンタッキーフライドチキン、1971年にマクドナルドの第一号店がオープンしてから、これらは大規模なチェーン展開を始めました。住宅建設ブームが起き、西ドイツやフランスなど西ヨーロッパの景気が良くなっており、そちらへの輸出の増大が続き、アメリカ経済が活発になっていたので、カーター政権が1978年に金利を6%から史上最高の9.5%にまで引き上げ 民間企業に賃上げ・値上げの自粛を呼びかけていましたが、構わずアメリカの物価は上がり続けました。日本の主な貿易相手であったアメリカの景気が良くなっていたので、日本の経済も活発化し、新しく子供が生まれ 家族の数も増え続けたので、ファミレスやファストフード店の需要は増え、1975年に10兆円以下だった飲食店の市場規模は、1978年には12億円にまでふくれあがり、まだまだ増加する勢いでした。

当時勢いのあったコンビニか外食産業の会社を立ち上げたいなと考えられた小川さんは、悩んだ挙げ句 外食産業を選ばれ、経営の仕方を学ぶため吉野家に入社されました。決まったグラム数の牛丼を盛り付けたりトイレの掃除をすることから始め、入社後2ヶ月で店長になれるまで昇格されました。
しかし吉野家は、1980年に120億円の負債を抱えて、7月に裁判所に会社更生法の適用を申請し、一度倒産しました。店舗拡大を急ぎすぎて資金繰りが悪くなったこと、材料である牛肉が値上がりしたこと、つゆのコストダウンのために粉末のつゆに変更したところ味が悪化して客離れが進んだ事、などが同社の経営が悪くなった原因です。
当時、牛肉は値上がりしていました。
日米牛肉・オレンジ交渉の一貫で、1978年に日本が牛肉やオレンジの輸入枠を拡大すると言うことで決着しました。輸入牛肉が沢山手に入るようになり、値段が安くなるかと思いきや、むしろ高くなってしまいました。
1955年頃から1973年頃までの高度経済成長を経て、日本人の所得が上がり肉を手軽に買えるようになった事や、健康ブームが始まり肉が体に良いと主張する本がベストセラーになった事により、1970年代末は食肉需要が増え、肉を買う人が増えたので 肉の値段が上がっていったのでした。

会社更生法を申請してから、3年後の1983年に吉野家の松田社長が社長退任を決意し、以降は同社の経営権をセゾングループに移しました。
当時セゾングループは、経営がだんだんと傾いてきていたので、生き残るために会社を買収したり新ブランドを作ったりと、必死でした。
運営していたスーパーマーケット 西友の業績が良くないので、
「これからは仕入れたものを売るだけではなくて プライベートブランドを開発しなければ生き残れない」
と考えたセゾングループは1980年に「無印良品」の店をつくり、ヒットさせました。しかし、当時 セゾングループの稼ぎ頭であった西武百貨店では人材不足や社員の教育不足などで、仕入れがスムーズにいかず 欠品が相次ぎ、同業他社の松屋や高島屋に差を付けられていました。そこで、何かしなくてはヤバいと考えたセゾングループ経営陣は、吉野家は資金繰りの悪化で倒産しかかっているだけで 牛丼自体が売れなくなったわけではないから、吉野家にセゾングループが持つ資金を注入して復活させれば、やがてはセゾングループに利益をもたらしてくれる会社になるに違いない、と考え同社に出資し 子会社化しました。

当時はまだ日本では、店舗数を増やして手広く商売している外食企業がなかったと言うこともあり、銀行から
「吉野屋さんは大胆に店舗展開しようとされてますが、それじゃあ経営が成り立たなくなるでしょ。そんな会社には危ないので融資できません」
と言われたときも、アメリカ小売業のマーケティングなどを一通り学んでいた小川さんは、
「マクドナルドは米国中に1万店あるが、1979年にHappy Meal(日本でハッピーセットと呼ばれている、子供向けのハンバーガー・ポテト・ドリンク・おもちゃのセット)の全国店での発売を開始できるほど儲けることが出来ています。牛丼は牛肉を醤油で煮てご飯の上にのっけるだけの簡単な料理で、ハンバーガーと似ているので、アメリカのマクドナルドのように店舗展開しまくっても問題ないはずです。それに、店舗数を増やして 大量に仕入れることができるようになれば、仕入れ値が安くなり、儲かる会社になりますよ」
と説明して融資の打ち切りを逃れるなど、かなり使える人材なので、認められていました。
そのため、吉野家の経営が傾いてきた1979年(当時小川さんは31歳)から会社の財政を管理する経理部の幹部にまでのし上がっていた小川さんは、吉野家倒産後、再建メンバーの中心の一人になりました。中心とは言っても吉野家はセゾングループの子会社と言うことになっていたので、吉野屋社員である小川さんの案は通らず、同社社長はセゾングループから送り込まれた杉本さんということになり、杉本さんは成長を目指さず規模は小さくとも安定的に利益を出すべしという考え方で、店舗数もあまり増やさない方針でした。小川さんは面白くなかったので、こうなったら創業してやると思い、3人の部下を引き連れ、1982年6月に横浜市鶴見区の工場が多く消費者が多そうな地域で、資本金500万円 店舗面積6坪の小さな弁当屋としてゼンショー社を設立されました。
吉野家の経理部で仕事をしている内に、第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)や東海銀行(アメリカの自動車メーカーがクラウンよりスピードが出る・振動や騒音が少ないなど品質の良いコンパクトカーを量産し始めたので、トヨタ自動車の高級車 クラウンがアメリカで売れなくなり経営危機に陥った1960年頃も、トヨタ自動車の底力を信じて同社への融資を続け、同社を救った銀行。2002年1月に解散)と仲良くなっていた小川さんは、なんとか資金500万円を集めることができたそうです。
また、本当は牛丼屋をやりたかったそうですが、当時は資金があまりなかったので、イートインの店を始めることはできないと判断し、テイクアウトで設備投資が小さくて済む弁当屋に決定されたようです。

弁当屋は設備投資が小さくて済みコストをかけずに運営できる反面、複数のおかずを調理しなければならず人件費がかかるのであまり儲からないのですが、小川さんが、金がないから絶対に失敗できないぞと思い、必死でその地域の住民の所得水準や仕事内容などを調べ 何が売れるか を考えた甲斐があり、弁当屋1号店をオープンさせた2ヶ月後ぐらいから月商500万円を達成し、3ヶ月後には店を7店舗まで増やせるぐらいには資金を貯めることができたみたいです。
そしてなんと、弁当屋1号店をオープンさせたわずか4ヶ月後である1982年11月に横浜市の生麦駅前に牛丼屋「すき屋」1号店をオープンさせることができました。1971年から海に面している横浜市では、これまでより大型の船舶を入れる事ができこれまでより大量の貨物を荷下ろしして一時保管しておける巨大倉庫や輸送用道路を建設する工事が始まり、そちらの工事が1984年頃に終了する予定だったので、特に1980年代前半、鶴見区には建設会社や資材をつくる工場などが沢山でき、1980年の横浜市の事業所数は1971年のそちらより500ほど増えるほどでした。そのため、生麦駅には1日に3万5000人の乗降客があったので、こちらの駅前で牛丼屋をやれば儲かると言うのが、小川さんの考えでしたが、当時既に吉野屋が牛丼屋を多店舗運営していたので、吉野屋と違う価値を提供しなければ流行らないというのが現実でした。
そちらがなかったすき屋店舗にはあまり客が入らず 朝7時から夜23時過ぎまで働いていたにもかかわらず、しばらくは損益分岐点すれすれの売上しか上がらない状態が続いたそうです。

観察していて、吉野屋はサラリーマンの男性が昼食を食べるために利用する店しか出していないと知った小川さんは、自分は子連れ家族向けの牛丼屋をつくるぞと決定されました。当時 牛丼屋は仕事中のサラリーマンが寄りやすいように、駅前に店を構えるのがお決まりでしたが、小川さんは自動車での利用客を想定して、東名高速道路(東京-愛知間の高速道路)沿いや郊外の幹線道路沿いに出店しました。また、ファミリーやカップルが利用しやすいように、テーブル席を多めに作ったり インテリアを落ち着いた色合いにしたり、さまざまな工夫をされたようです。
競合の吉野屋をはじめ多くの外食チェーンは、一つの店に調理役と接客役の2人を配置していますが、経営に慣れておらず出店場所選びが苦手だった小川社長は、客が入らず十分な売上・利益が上がらない店舗を運営しなくてはいけなくなることも珍しくなかったので、2人分の人件費を払えず、店舗に1人しか配置しない「ワンオペ」をせざるを得なくなりました。深夜も1人で監視の目が行き届かないため、レジからお金が盗まれるという強盗事件も多発しました。
さらに、この頃の小川さんはまだ信用が無かったので、店にするために買いたい物件を全て自分の目で見て その地域の1日の歩行者数を調べ、さらに飲食店を営む上で重要となる所得水準なども詳しく調べ、1日24時間の時間帯の入客数予測を1時間ごとに作成し、何年で借金を返せるかという計画書を作り銀行に提出し、その後も銀行側と議論を重ねるなど苦労しても、それでも借りられるのは少額という感じだったそうです。
このように苦労されましたが、地道に売上・利益を上げ続けた甲斐があり、すき屋は1993年には100店舗を達成するまで店舗拡大し、ゼンショー社はすき屋1号店を出店した15年後の1997年8月に、株式を店頭公開することができました。

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1993年は日本経済が絶望的に冷え込んでおり、外食業界にとっても厳しい時代だったのですが、その時も順調に店舗拡大を続けることができたゼンショー社は最強企業です!

ブッシュ大統領(任期: 1989年1月20日-1993年1月20日)は、1889年12月にパナマ侵攻を行ったり1991年1月から湾岸戦争を行ったり1992年に入ってから、アジアとヨーロッパ間で貿易をする際に近くの海を通らなくてはいけないので 毎年多くの商船が寄港するソマリアの利権を巡る争い ソマリア内戦に首を突っ込んだりし、歳出がかさみ財政赤字が絶望的になったので、1990年11月に所得税を最高税率28%から31%と大幅に引き上げざるをえなくなりました。また、ブッシュ大統領は敵対勢力が多い議会を上手くまとめることができず、国内の経済政策に失敗しまくった事もあり、アメリカの経済成長率は「1988年: 4.2%」から「1992年: 3.5%」まで下がってしまいました。
1990年に入ってからアメリカの財政赤字が急速に膨らんだので、アメリカ経済が期待されなくなりドルが売られ始めました。1990年から失業率が上昇傾向にあり アメリカ国内の経済が決して良くなかったにもかかわらず、アメリカ政府はこれ以上ドルが売られて ひどいドル安になることを防ぐため、金利を下げることができなくなりました。金利が高止まりしたので、アメリカ国内で消費活動があまり行われず、インフレ率が「1990年: 5.42%」「1991年: 4.22%」「1992年: 3.04%」「1993年: 2.97%」と年々下がるほどアメリカの経済は冷え込みました。
アメリカの経済が悪くなり 企業も儲からなくなってきたので、これまで盛んに行われてきた、西ヨーロッパ諸国の企業・個人のアメリカ企業への投資が行われなくなりました。このようにして西ヨーロッパ諸国では、投資ブームが終了し1992年後半に入ってから経済が悪化しました。またこの頃、先進国であるイギリスで 不動産バブルが崩壊し、消費が落ち込んだことも、西ヨーロッパ経済の減速に拍車をかけました。
1991年3月から日本でバブル崩壊がはじまったのもあり、不動産価格が暴落して銀行が次々倒産し 戦後初めて預金保険制度(銀行が破綻した場合、政府や日本銀行が預金者に 倒産した銀行の代わりにお金を返す制度)が発動されるほど危機的状況になっただけでなく、1991年6月に「日本が外国に半導体を安く売ることを禁じる、日本の半導体市場における外国製のシェアを20%以上にすることを目標とする」第二次半導体協定が結ばれ、国内で半導体をあまり売れない・輸出もあまりできない状態になり、日本経済を牽引していた NECや東芝など半導体メーカーの業績が悪くなり、これらの下請け企業の業績も悪くなったので、日本経済が低迷していました。
その上、上述のようにアメリカ・西ヨーロッパ経済も悪くなっていたので、これらの国々に自動車や液晶ディスプレイを輸出できなくなり、日本の輸出額は「1992年:43.0兆円」から「1993年:40.2兆円」まで減ってしまいました。
そのため、日本経済は絶望的に冷え込み、1993年の日本の経済成長率は-0.5%にまで落ち込み、それまで年々伸びていた外食産業市場は1992年の30兆円で停滞し、1995年の終わりまでそのままでした。

1993年は日本経済が絶望的に冷え込んでおり、外食業界にとっても厳しい時代だったのですが、その時も順調に店舗拡大を続けることができたゼンショー社は最強企業です!

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役者がそろう


株式を店頭公開して信用力がついたゼンショー社は、店頭公開のわずか2年後の1999年には東証2部に上場することができました。
1999年2月に日本銀行が、アジア通貨危機(1997年7月にタイで始まり、周辺国に広がった自国通貨の大幅な下落)の国内への影響を最小限に食い止めようと考え、ゼロ金利政策を決定しました。そちらによりお金を借りやすくなったので、どんどん設備投資して儲かるようになったこともあり、ゼンショー社は2000年3月期には、売上高が創業初年度の約200倍にまで成長しました。資金が沢山あるので、ゼンショー社は2000年11月に、食肉卸売りを専門に行う株式会社ゼンショー商事を設立する事ができ、そちらから毎回調理に使う食肉を仕入れることにより、いつでも新鮮な肉を使えるようになりました。
順調に成長を続けたゼンショー社は、2001年9月には東証1部に上場することができました。

売上・利益を上げ、ファミリー層が来やすい道路沿いに「すき屋」店舗を出店しまくっていたゼンショー社は、新たな問題に直面しました。
店舗数を増やせば増やすほど そちらで使う食器・調理器具・店内装飾品を新しく買わねばなりませんでした。しかもすき屋店舗で使う食器や装飾品は、すき屋独自の物も多かったので、特注で注文する必要があり高くつきました。
このように販管費がかかるので、ゼンショー社は売上高が伸びても営業利益がそこまで伸びないという問題に直面しました。2001年度のゼンショー社の営業利益率(営業利益÷売上高×100)は1999年より下がる位でした。
そこでゼンショー社は、2002年6月に ゼンショー店舗で使用する食器や調理器具・店内装飾品を製造し、すき家各店舗に安く供給する株式会社グローバルテーブルサプライを設立し、販管費を下げました。

また2000年に入ってからゼンショー社は、ファミレス ココスを運営するココスジャパン社と商品開発や仕入れを共同で行っていましたが、ココスジャパンが儲かっていない企業で安く買えると知ると、会社を安く買って儲かる企業に復活させればゼンショー社に利益を与えてくれるようになると考え、小川さんはすぐに同社買収にかかりました。
同年7月、ゼンショー社は同社を買収して すき屋を運営する中で得ていた従業員を効率よく動かすノウハウを使って生産性を上げ、買収してから1年半でココスの営業利益率を2.45%から6.5%まで上げ、小川社長は 自分にはファミレスを運営する力があると自信をつけました。そのため、ゼンショー社は2002年5月から、セゾングループからファミレス「CASA」の120店舗を買収し運営できることになりました。その後も地道に店舗数を増やしていったことにより、ゼンショー社はファミレスを全国展開する企業になり、ゼンショー通期決算をみると、2008年度のファミリーレストランカテゴリーの売上高は1363.5億円(同社の同年度 牛丼カテゴリーの売上高は、959.0億円)となり、ファミレスはゼンショー社の業績を支えてくれる重要な存在となりました。

また、回転寿司は専用のベルトコンベヤーを使い、基本的に人の手を介さず客席まで料理を運べるので、ファミレスなどより人件費がかからず販管費を抑えられると言われています。
そこで小川社長は2002年10月から回転寿司屋の運営を始める決意をし、同年11月に栃木県ではま寿司1号店をオープンさせました。
「安全で美味しい食を手軽な値段で安定供給することがゼンショーの目標」という考え方は創業以来ぶれていないので、小川さんは回転寿司を100円で提供すると言うことにこだわりました。世界中から質の高い商品を仕入れ、なるべく美味しい状態で提供できるよう、調理法の研究も精力的に行いました。
料理の質を求めると高くなってしまいますが、度々 牛肉の輸入先であるアメリカへ行ったことがある小川社長は
「日本の消費者は世界一疑り深いので、安いと質が悪いと考える。この先入観を克服しなくては、ゼンショーブランドは地に落ちる」
と言い、ギリギリ利益がでる位に商品1つあたりの原価率を引き上げる代わり、沢山数を売って全体の利益を確保するという、薄利多売戦略を行いました。

ゼンショー社は、2006年 北海道に・2007年 沖縄に食材加工工場を設けたのをきっかけとして、そちらからコメや野菜などを調達できるようになったので、2012年に北海道に・2013年に沖縄県にはま寿司店舗をオープンすることができました。同社は、以降 北海道と沖縄ではま寿司店舗を拡大させました。国内の寿司屋店舗数が1994年から年々減り続けている所からみても、日本では1990年代半ばから 寿司屋の生き残りが難しくなっていると分かりますが、ゼンショー社は競合の少ない北海道や沖縄などに回転寿司屋を出店することで売上高・利益を出すことができました。

また、傘下に牛丼屋やファミレスをもつゼンショー社は、おいしい牛肉炒めやハンバーグなどをつくるノウハウを持っているので、そちらを使って他の回転寿司屋にはないハンバーグ寿司やローストビーフ寿司などを提供する事ができ、こちらが大変ウケたようです。
2016年度の通期決算で、はま寿司がゼンショー社の出した経常利益のうち、37%を稼ぎ出した事が分かるほど、はま寿司はゼンショーを支える存在となりました。

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リーマンショック・ユーロの信用が落ち価値が下がり、ヨーロッパの経済がガタガタになった欧州債務危機の影響で、2010年 世界の経済が低迷していたので、日本の輸出入総額は「2008年:160.0兆円」「2010年:128.2兆円」と落ちました。日本のインフレ率も「2008年:1.38%」「2010年:-0.74%」と落ち込み、2009年に麻生内閣が経済を活性化させるために エコカー減税・中小企業への税率引き下げなどを行いましたが、欧州債務危機の大波には抗えず、2010年の個人消費は2006年より減少しました。その中でも営業を続け、売上高・店舗数を増やし続けたゼンショー社は最強です。

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新たな時代へ


2016年4月に全都道府県での出店を達成したはま寿司は、何か新しいことがしたいと思いました。
競合のスシロー社が、すしネタとして使えない魚介類の頭やアラを使用して2014年からラーメンを提供していて人気メニューになっているという話を聞き、これをはま寿司でもやろうと考え、全国各地の人気店を食べ歩いて麺やスープの研究を重ねた上で、ゼンショー社の強みである肉料理のノウハウを使い、はま寿司は2016年4月から豚骨エキスのきいた「博多とんこつラーメン」の販売を開始しました。ゼンショー社が2002年12月に買収して子会社にしたハンバーグレストラン「ビッグボーイ」を全国展開するビッグボーイジャパン社は、2012年4月からカレーバーを提供しており、カレーを作る上で豚肉エキスを効かせるので、とんこつスープを作る上でそのノウハウが使われているようです。「スープにクリーミーで濃厚なコクがあり、動物系の生臭さが全くなく、本場の博多ラーメンを感じビビった」などと食レポされ、2017年には2ヶ月で120万杯以上売れる超人気メニューとなりました。
2018年6月より、「有名店の味を身近なかっぱ寿司で」をコンセプトとした本格ラーメンシリーズがかっぱ寿司で始まり、第一弾の有名ラーメン店「えびそば一幻」と協力してつくられた海老・味噌・とんこつで味を付けた『海老ラーメン』が発売早々 史上最速の10日間で10万食を突破しました。その話を聞いたはま寿司経営陣は、これからは回転寿司でラーメンを売る時代だ と考え、とんこつだけではなく余った魚介類の荒節(魚の頭や内臓を取り除き、骨を除き煮た後に燻し乾燥させたもの)を使った『荒節醤油ラーメン』や、1975年頃に減塩醤油を全国で最も早く発売し、以来 減塩でも美味しい醤油の研究を続けているので「青森の家庭に無くてはならない必需品」と有名になっている醤油メーカー「ワダカン」の醤油を使った『青森 津軽風 煮干し中華そば』などを開発し、提供し続けています。

はま寿司は2018年12月に国内500店舗・競合のかっぱ寿司やくら寿司よりも高い売上高を達成したのですが、もっと人気を高めようとさらなる改革を行いました。
ゼンショー社は572.4億円(2019年3月時点)という豊富な「現金及び預金」を使って、2019年11月からはま寿司店舗の改装を行い設備の省エネ化を進めたり、コロナの影響でテイクアウトが流行ってきていたので、2020年4月からはま寿司全店でネットからもお持ち帰り注文ができるようにしたり、同月からテイクアウト用の丼物メニューを充実させたりしました。またはま寿司は2020年11月から、まぐろ・サーモンのネタサイズの増量を開始しました。こちらはどちらも100円ネタなのですが、まぐろは20%、サーモンは25%増量して値段はそのままという太っ腹改革です。
これらの大改革を行ったため、2021年3月時点のゼンショー社の「現金及び預金」は376.4億円まで下がってしまいましたが、コロナ禍の影響でもっと下がるかと思われたはま寿司を代表とするゼンショーのファストフードカテゴリーの2021年3月期の売上高は、前年同期比 7.7%減とさほど下がりませんでした。さらに省エネ化やテイクアウトの充実など儲かる体制を築いたため、はま寿司を代表とするゼンショーのファストフードカテゴリーの売上高は「2022年3月期:前年同期比 8.7%増」「2023年3月期:前年同期比 27.8%増」と増えていきました。
(テイクアウトの便利さを知った消費者は、感染拡大が落ち着き コロナ禍が一段落付いた2022年になっても飲食店のテイクアウトを利用し続けたため、2022年の外食業態テイクアウト市場はコロナ禍前より増えたままでした。そのため、ゼンショー社がはま寿司のテイクアウト方面を強化したのは、良策だったみたいです)

はま寿司は2024年4月から、すき家やはま寿司・ココスなどゼンショーグループの店舗だけで使える電子マネーCooCaポイントの使用をだんだん停止し(2024年4月22日から新たなポイント付与を停止、2025年4月21日からCooCaポイント利用停止)、代わりに国内で広く使われている「Vポイント」への対応を始めるようです。また、2024年2月から旬の「鰆(さわら)の天ぷら握り」や脂のりの良い「富山県氷見(ひみ)産ぶり」などの販売を新たに始め、はま寿司はネット上のアンケートで「40代以上の男性がコスパ最強だと思う寿司チェーン」堂々の2位に選ばれました。
原材料費が高騰していますが、はま寿司はこれからも格安路線を堅持しつつ、ラーメンやたこ焼きなどのサイドメニューを充実させることで売上を確保する作戦なようです。

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2020年の経済成長率は-4.5%にまで落ち 消費も落ち込みましたが、その中でも「2019年:6076.8億円」「2020年:6304.4億円」と売上高を上げることができ、営業利益も伸ばせたゼンショー社は大企業です!

リーマンショックが起きてから金利を引き下げていたアメリカ政府が、景気が大分回復して むしろ過熱気味になってきたため、2015年12月に0.00%から0.25%まで引き上げ、2016年12月にさらに0.25%引き上げるなど、金利を上げ始めました。金利が上がるとローンを組みにくくなり自動車が売れにくくなるので、日産自動車やトヨタ自動車などアメリカで販売している日本車メーカーが、値引きして売ってもらうために アメリカの販売店に1台売れば3993ドル(約45万円)渡すなど お金を配り始めました。しかし、それでも金利上昇の影響は大きく、それまで増え続けていたアメリカ国内での自動車販売台数は、2016年はじめから下がったり戻ったりで、上昇しませんでした。

上昇はしませんでしたが、トランプ政権(2017年1月20日-2021年1月20日)の大胆な税制改革により、下降もしなかったようです。
2017年12月に それまでアメリカで行われていた全世界課税制度(外国子会社が出した利益を、アメリカ企業が米国に持ってきたときに、アメリカ政府が課税を行う制度)を取りやめ、テリトリアル税制(外国子会社が出した利益を、アメリカ企業が米国に持ってきたときに、アメリカ政府が課税を行わない制度。移行前、利益を米国に持って行くと課税されるので、アメリカ企業は全体で2.5兆ドルといわれる利益を外国子会社にため込んでいましたが、移行後 ため込む必要がなくなったので、アメリカ企業はその2.5兆ドルを米国に移し国内の設備投資に利用できるようになりました)に移行したことにより、ゼロ金利政策が終わった2015年末から停滞していたアメリカ企業の設備投資は、2017年はじめから徐々に上がり始めました。
また、法人税の最高税率を35%から21%に大幅に引き下げたことにより、実質可処分所得(所得総額から税金や社会保険料などを引いたもので、好きに使えるお金を表す)が上がり、それにより停滞していた個人消費も2018年はじめから伸び始めました。
以上のような政策のおかげで、アメリカ国内での自動車販売台数は年換算1700万台程度をキープしました。

大型ハリケーンが2017年8月末にテキサス州、9月上旬にフロリダ州に上陸するなど災害続きで、2018年半ば以降 住宅ローン金利の上昇を背景に住宅着工件数が横ばいで増えなくなりましたが、個人消費は順調に増加し GDPも上昇傾向にあるので、金利を上げてもアメリカ経済は大丈夫とおもったのか、トランプ政権は2017年末から「2017年12月:+0.25%」「2018年12月:+0.25%」とチョコチョコ金利を引き上げていました。

ところが、コロナ禍の影響により自動車販売台数は急減し、2020年4月には年換算858万台となってしまいました。販売台数が急減してきたので、慌てたトランプ政権は2020年3月に政策金利をほぼ0%まで切り下げました。しかし自動車需要は急には回復せず、2020年の日本の対米輸出額(自動車・自動車部品)は2019年より21.7%も減りました。アメリカに主に自動車を輸出して儲けている日本のダメージは大きく、2020年の日本の経済成長率は-4.5%にまで落ちてしまいました。消費も落ち込み、同年の日本のインフレ率は-0.03%にまで落ちてしまいました。この中でも「2019年:6076.8億円」「2020年:6304.4億円」と売上高を上げることができ、営業利益も伸ばせたゼンショー社は大企業です!

今後 ゼンショー社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。

次回は、回転寿司屋を全国展開する、くら寿司の歴史について解説します。
お楽しみに

まあに店主


サムネイル内で使った画像の引用元:
https://asset.watch.impress.co.jp/img/ipw/docs/1330/321/hama_02_s.jpg

https://news.nissyoku.co.jp/news/mori20230530050929330

https://www.hama-sushi.co.jp/menu/

その100円が、まあにのゼンマイを回す