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[回転寿司屋] くら寿司の歴史

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まあに店主

 今回は、回転寿司の店舗を全国展開する、くら寿司の歴史について解説します。
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クラシック


大阪へ


創業者の田中邦彦さんは、1951年1月、岡山県の、後に総社市となる所で生まれました。

田中さんの3歳の1954年3月に 人口が減少していたいくつかの村が合併されて総社市ができたので、田中さんの幼少期に当たる1950年代の総社市は、人口の少ない市でした。そして、総社市は山に囲まれた盆地なので、夏暑くカブト虫やクワガタなどの昆虫も沢山住んでいます。

田中さんの父は総社市内で八百屋兼日用品店を開いており、父親とオート三輪で近くの山へ店の商品のしきび(独特の強い香りを放ち、仏教で邪気払いのために良いと考えられ仏壇の供え物として使われる植物)をとりに行ったり、販売前に、祖母としきびの葉を磨いて泥を落としたりしたことが、田中さんの幼少期の印象的な記憶だそうです。また、幼少期の田中さんは大勢で遊ぶのが好きではなく、一人で川釣りやカブト虫採りなどをして楽しむ子供だったそうです。勉強せず遊びすぎて、小学5年生になっても9×9が言えず恥をかいた事もあったそうですが、田中さんは経営者になって人を採用する立場になってからも、
「子供時代は遊ぶべき。少年時代 楽しいときを過ごしている人は、人間の魂が素直に喜ぶことは何かを知っているから、大人になってビジネスをする上で良い判断ができると思うんです」
と言っています。

小学校を卒業し、中学生になった田中さんは、哲学にのめり込みました。様々な本を読む内、高村光太郎の詩集『道程』の一文「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」に出会い、自分も新しい道を作って 新しい価値を産み出す人になりたいと考え、起業家を志しました。起業するためには勉強を頑張らなくてはいけない と言うことで、田中さんは勉強家になりました。一番好きだったのは小学生の時苦手だった数学で、当時から負けず嫌いだった田中さんは 普段から数学の難しい問題ばかり解いていましたが、基本的な問題を全然解けるようになっていなかったので、テストの点数は悪かったそうです。しかし、頭の良かった田中さんは、当時 地元で一番の進学校とされていた岡山県立総社高等学校の入試を突破し、同校に入学できる事になりました。高校に入学してからも、やはり数学が好きだった田中さんは数学ばかりやっていたので、学校の勉強ができず、学校で紛失事件が起こると真っ先に犯人と疑われるなど、教師からのイメージも良くない方だったみたいです。田中さんの方もすねて、興味の無い数学以外あまり勉強しようとしませんでした。しかし、高校3年生の時 大学受験を控えた自分のために、授業時間外も苦手だった英語をマンツーマンで教えてくれた先生の態度に感動し、教師にもいい人がいるなと思い 田中さんは暗記が苦手だったのですが、先生に教えられた通り 頑張って単語を覚えました。

田中さんは岡山県で生まれ育ちましたが、大学は、大阪の桃山学院大学を選んだそうです。
何故大阪の大学を選んだかというと、当時大阪は経済発展していたので、田中さんは将来 大阪で起業しようと考えており、その下準備のためにも、一刻も早く大阪に出たいと考えていたからです。

当時大阪は経済発展していました。

山に囲まれ外洋からの風の通りが悪いので、熱気がこもりやすく温暖・雨が少ないが、琵琶湖の近くなので水が豊富にある大阪は、高い気温を好み 生育のために多量の水が必要だが雨が降るとカビが生える事があるので好ましくない綿花の栽培に適しており、そのため大阪では古くから紡績業が発展しています。第一次世界大戦(1914年7月-1918年11月)に巻き込まれたり、昭和2年(1927年)の不況の中、銀行がつぶれる噂が飛び交い各銀行で取り付け騒ぎが相次ぐ金融恐慌が起きたり、様々な経済危機が日本を襲いましたが、大阪から大量の繊維を輸出できたので、日本経済はなんとか持ちこたえました。

戦後、日本の経済再建に当たって、日本の繊維産業はその復興資材輸入に必要な外貨獲得のための戦略的輸出産業として活躍しました。戦争の空襲で工場が壊滅的な打撃を受けてしまったので、戦後しばらく日本は鉄や化学製品を製造することができず、1950年に日本からの全輸出金額8.2億ドルに対し、繊維品輸出金額が4.0億ドルと半分近くを占めています。このように繊維品が重要輸出品である状態は、「三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)」に代表される家電の大量消費・各企業の設備投資拡大により、景気が過熱して物価が上がり始め、繊維品より高価なモノを輸出しなくては儲からなくなった1960年まで続きました。

太平洋戦争中、工場の近くに鉱山があり鉄鉱石を輸入に頼る必要が無いので、日産400トンの鉄を安定的に生産できる国内唯一の特別な製鉄所 釜石製鉄所(岩手県にあった)や爆薬の原料などを生産していた日本窒素肥料株式会社の水俣工場
(戦後 チッソと社名を変えて復活し、輸入原料を一切使わずに戦後の食糧難を解決できる窒素肥料(硫酸アンモニウム)を生産していたが、工場からメチル水銀を垂れ流し それが水俣病の原因となった。しかし、世界で唯一 日本窒素肥料株式会社だけが生産する技術を持つ一般的な再生繊維より耐久力・耐摩耗性に優れたベンベルグの技術や、同社が持っていた越後(新潟県の大部分)の石灰石を使った化学肥料の製造技術などを用いて、1926年に信越化学工業、1931年に旭化成、1960年に積水ハウスを設立したので、日本窒素肥料株式会社は 現在の日本の発展を作った企業とも言える)
などは空襲で大打撃を受けしばらく再起不能になってしまったので、日本は戦後しばらくの間鉄や化学製品などを製造することができなかったのです。

物価が高くなり、繊維品より高価なモノを輸出しなくては十分に儲けられなくなった1960年頃から、大阪が元々得意とした繊維産業は下火になりましたが、大阪は古くから製造業や商業などが盛んで人口・雇用が多かったので、松下電器産業(パナソニック)やシャープなど日本を代表する家電メーカーが工場や営業所をつくり儲けることが出来たため、彼らが大阪で家電製品を量産し、景気が良くなっていたアメリカ
(アメリカでは1960年代、所得税減税や低金利政策などの成長政策により企業の設備投資が増加し、1964年にDEC社が安価だが高性能なミニコンピュータ(PDP-7)を開発したり、1968年に半導体メモリのメーカー インテル社が設立されるなどハイテク技術が進みました。ヨーロッパ各国にコンピュータを輸出することにより、アメリカの経済はさらに良くなりました)
に輸出しまくったことにより、大阪経済の発展は1970年代中頃まで続きました。

そういうわけで、当時大阪は製造業が盛んで「1960年:550.5万人」「1965年:665.7万人」「1970年:762.0万人」と人口が増えており、そのため商業も盛んとなりました。田中さんが大学を卒業する1973年には、大阪や兵庫県で安売りスーパーを運営していた ダイエーの売上高が1970年時の倍となり、1973年にはそれまで小売業界で日本一の売上高を誇った百貨店を追い抜いて、小売業界で日本一の売上高を誇るようになりました。当時 スーパーマーケットが就活生に人気でしたが、大学時代に結婚していた田中さんは、お給料が良かったのでお酢のメーカー タマノイ酢に入社しました。はじめは営業のノウハウが分からず、怒られることも多かったみたいですが、モノを作って飲食店などの業者に売る仕事をしたおかげで、飲食店経営の現状などが分かり、その知識が後に役立ったそうです。

急成長


1977年 26歳の時に会社を辞め、田中さんは大阪堺市にわずか15坪の寿司店を開業しました。まだ資金がなかったのでイートインの店はできず、持ち帰りと出前専門のすし店でした。
特別感を出すために寿司一皿の値段を周囲より高めに設定したが、ヨミが外れて全く売れなかったり、寿司の握り方や魚さばきの技術などが全くなかったので1から独学せねばならなかったり、知名度が全くないので 閉店後に近所で店のチラシを配らねばならなかったりと苦労しましたが、それでも田中さんのすし店の月の売上は54万円でギリギリ利益が出る程度という状態でした。1978年に元禄寿司の特許「コンベア旋回式食事台」が失効し、元禄寿司にフランチャイズ料を払わなくても 店に回転レーンを導入できるようになりました。楽しい子供時代を送ったので、子供心を理解している田中さんは、早速 レーンを導入したいと思いましたが、実はこの段階では特許の関係で、「回転」「回る」という商標を使う事はできませんでした。そのためレーンを購入するための資金が足りないのと、回転レーンを導入するからには お客さんに分かりやすいよう店名に「回転寿司」と入れたいと考えた田中さんは、商標の権利が失効して「回転」という文字を店名に入れられるようになるまで、持ち帰り・出前専門のすし店を運営しながら待たねばなりませんでした。
田中さんは1984年7月、大阪堺市の中百舌鳥(なかもず)町に回転寿司1号店を作り、店名を「回転寿司くら」としました。
当時 中百舌鳥町は、1983年に大阪府道28号(大阪府内を北の方から南の方に延びている道路)が開通してから人通りが多くなり経済発展してきたものの、そちらには当時人気だった百貨店 西武百貨店やそごうの店舗が多数出店することになりました。1979年に、そごうが店舗内に飲食店街を導入したところ好評だったので、以来 百貨店内には客寄せで飲食店を置くのが普通となりました。すると中百舌鳥町内の飲食店は、どうしても百貨店に客を取られてしまうため、同町内の飲食店用の賃貸物件は売れなくなりました。そのため、田中さんが借りた物件は、大手回転すし店が見切った物件で、月30万円の家賃が月20万円まで下げられており、しかも保証金はなしと、安売りされていました。

その安売りされていた物件を借りた田中さんは、生きたままの車エビを市場から買い取って回転レーンに流しお客さんを喜ばせたり、それまでのように客の目の前で寿司がレーン上で左から右へ流れていくのではなく、客の横をレーン上の寿司が後ろから前に流れていくようにレーンの形・座席の位置を変え、ファミリーで来たとき向かい合って談笑しながら食べられるようにし ファミリー層の客に喜ばれたので、回転寿司1号店を繁盛させることができました。1店舗で売上が月2000万円以上出たので、まずまずと考えた田中さんはくら寿司をチェーン化させるために、渥美俊一さんの著書などを読んで勉強していました。また、回転寿司用ベルトメーカーの社員が
「ブームの回転寿司をやると儲かると考えて、回転寿司業界に参入する人は多いが、ベルト上に長時間放置されたすしを食べると食中毒を起こす可能性があるので、一定時間 ベルト上を流れているすしを必ず廃棄するようなシステムを作らないと問題が起きる可能性があるが、今のところ誰もこの問題について真剣に考えない」
と嘆いているのを聞いた田中社長は、この問題を必ず解決しなくてはいけないと考え、研究を進めました。その結果、レーンを回る全てのお皿にQRコードを貼り、これを厨房にあるセンサーが読み取り、一定時間が経ったと判断されれば廃棄される「QRコード時間制限管理システム」が1997年に、寿司皿の上にカバーが載っており、しかもそのカバーはお皿を出し入れするとき人の手が触れない仕組みでいつも清潔なので、寿司に外の菌が付く心配がない「抗菌寿司カバー(鮮度くん)」が、2011年11月に導入されました。ちなみに、これらは業界初だったので、大変な話題となりました。またくら寿司は、成長企業と言うことで就活生に注目され優秀な人材を集めて研究を進めることができたので、1995年から無添(寿司屋で多用される添加物 化学調味料・人工甘味料・合成着色料・人工保存料をくら寿司の商品で使わないこと)のブランドを掲げ、また2003年頃から同社は、寿司だけでなく醤油やマヨネーズなどの調味料にもこだわり、無添加のものを使うようにしているそうです。
鮮度くんを導入した後、くら寿司の売上高が「2011年度(通期決算):744.3億円」「2012年度:789.7億円」と増えてきて、「食の安全の追求」を始めた2003年度の207.6億円の数倍になっている所をみた田中社長は、これまでくら寿司が行ってきた「食の安全の追求」は正しかったと分かり、その後も研究を続け、スマホアプリから「時間指定」で予約ができ、自動的に客席まで誘導するので従業員との接触が少なく感染のリスクがとても低くなるシステムを2017年に開発し、厨房を通過する寿司カバーに近紫外線を当てカバーに付着している菌を殺すシステム(寿司カバーは、紫外線を通さない材質で作られているため、近紫外線を当ててもカバー内の寿司の品質には影響しない)を2020年に開発しました。

また、食の安全・おいしさを追求する姿勢だけでなく、食べ終えた皿を5皿テーブルの投入口に入れるとゲームが1回遊べる『ビッくらポン!』が2000年末から導入され、以降 タッチパネル画面上で遊べるように改良したり『仮面ライダーシリーズ』や『ONE PIECE』など人気アニメとコラボする事により、くら寿司は、子供に大人気となりファミリー層を客に取り込むことに成功しました。また、お調子者・遊び好き・曲がったことが嫌いで、祖母の教えを大切にしているという、田中さん自身を反映させたくら寿司のキャラクター むてん丸や彼の相棒 くら吉など、さまざまなマスコットを発表すると、それらも大変ウケ、客数増加に繋がりました。

売上高を増やす工夫だけでなく、
「テーブルの脇にある投入口に食べた後の皿を入れると店舗内に張り巡らされた水路の水流に乗って洗い場まで自動で運ばれる 水回収システムを1996年から導入して、店員が寿司皿を回収する手間(人件費)を減らす」、
「レジ係が大人何人・子供何人来客と入力すると、何枚の皿が消費されるかの大体の数値を統計データに基づいて求める『製造管理システム』を1998年から導入し、それを参考に寿司を作る事で廃棄量を減らす」、
「客が各テーブルに置かれた画面をタッチして商品を注文できるので従業員の手間が省ける『タッチパネル式注文機』を、他社に先駆けて2002年に導入する」、
「契約を結んだ船が網をかけてとった様々な魚介類を重量に応じた価格で丸ごと購入し、「これは鯛だから鯛の寿司の材料に使う」「これはハマチだからハマチの寿司の材料に使う」「これはまだ小魚だから大きくなるまでいけすで育てる」など、本来は漁師さんがやる選別の仕事をくら寿司の方でやり、その分安く仕入れさせてもらう」、
「『タッチパネル式注文機』は、料理の画像が載っていないのでどんな料理かが分からず、また画面サイズが小さく操作しづらいという苦情が出たので、2013年1月から画面サイズを大きくした新しい注文機を導入する」、
「来店前に人数を入力・来店時刻を指定して予約する事により、事前に何皿の寿司を作るべきかを知ることができ、店員が材料仕入れなどを計画的に進めることができる『時間指定予約システム』を2014年から全店導入する」
など、くら寿司はコスト削減のための策も行いました。
そのため くら寿司は営業利益を「2001年:7.3億円」「2005年:19.4億円」「2010年:47.5億円」「2015年:58.8億円」「2018年:68.8億円」と年々増やすことが出来ました。
儲けを出して資金が貯まったので くら寿司は、業界でいち早く回転寿司レーンを導入し・日本人の乗用車保有台数が 2023年末の15分の1以下で車社会がまだ始まったばかりの1968年から他にあまりなかった幹線道路沿いの店舗を出店し、関東地方を中心にファンを増やしていた元気寿司の店舗数を2008年時点で追い抜き、以後も店舗数を増やし続け 2012年には300店舗突破、2017年には400店舗を突破することができました。

アメリカへ


順風満帆に売上高・利益を伸ばしてきたくら寿司でしたが、2010年代末から問題に直面することとなりました。2019年のはじめから、安く品質の良い商品を提供するコンビニエンスストアが台頭し、それにより人手不足となり くら寿司の人件費が上昇してしまい、くら寿司の営業利益が「2018年10月期:68.8億円」「2019年10月期:54.8億円」と落ちてしまいました。

コンビニの歴史。

1974年の1号店の開設からしばらくの間、コンビニは社会的に認知されず、スーパーなど他の小売店が開いていない時間帯に使われると言うぐらいしか利用されませんでした。そのため、売上高・営業利益を伸ばすことができず、1983年になってもコンビニエンスストアはまだ全国に6308店(2023年5月末の9分の1以下)しかなく、同年の 国内スーパー全体の売上高は国内コンビニ全体の売上高の10倍以上あるという状態(2023年の国内コンビニの売上高:11.7兆円、2023年の国内スーパーの売上高:13.6兆円)でした。当時はまだ、大量に安く売るスーパーが強い時代だったのですが、不動産価格が急落をはじめたバブル崩壊(1991年-)によってそれまでのように、土地・建物を担保に金融機関から借金して資金を調達する事ができなくなり、国内のスーパーは経営難となってしまいました。

その頃のセブン-イレブン・ジャパンは、
店舗を自前で建築するスーパーとは異なり、店舗を賃貸で用意し、しかも店舗面積が小さいので出店コストがスーパーよりかからないコンビニ店舗を、土地・不動産が高いので 店舗を自前で建築するスーパーが店を出したがらない住宅地やオフィス街のすぐ近くに多数出店する、
小売業界では当たり前とされていた「そのメーカーから仕入れるときはそのメーカーと契約している運送業者に店舗まで運んでもらう」を1976年に「仕入れるときは自社で用意したトラックで複数のメーカーの商品を店舗まで運ぶ」に変えることによりコストを大きく下げる、
1978年に当時はまだ珍しかった「食べる直前に自分で海苔を巻くのでパリパリ食感のおにぎり」を開発し、その後も開封時に海苔を破損させずに楽に海苔とご飯を合体させる方法を考案し、「ご飯の塊を右に左に転がすことで海苔を巻くことができるセパレート型」(1982年)や「上から海苔とご飯の境目であるシートを引き抜くことで二つを合体させるパラシュート型」(1984年)などを発表して注目され売上高を上げる、
1982年に各店舗に POSシステム(消費者が商品をレジで購入すると、それが売れたというデータが本社に送られるシステム)を導入し、品揃えをしやすくなる、
銀行の営業時間外にも、コンビニ店舗で電力料金やガス料金などの公共料金の支払いができる画期的なシステムを、1987年から導入して利用客を増やす
など積極的な改革をしたため売上高・店舗数を増やすことができました。

その頃のファミリーマートは、
店舗を自前で建築するスーパーとは異なり、店舗を賃貸で用意し、しかも店舗面積が小さいので出店コストがスーパーよりかからないコンビニ店舗を、土地・不動産が高いので 店舗を自前で建築するスーパーが店を出したがらない住宅地やオフィス街のすぐ近くに多数出店する、
1982年からレジャーのチケットの取り扱いを開始する、
アメリカでファーストフード店付きのコンビニを運営していたホワイト・ヘン・パントリー社から1980年から組織運営の手法を学び、1983年から、ファーストフード(ホットスナック)の販売を本格的に始める、
1989年からPOSシステムを導入開始する
など積極的な改革をしたため売上高・店舗数を増やすことができました。

また1980年代前半、雪印乳業が運営するコンビニ「ブルーマート」、山崎製パンが運営するコンビニ「ヤマザキデイリーストア」で働いていた社員も多かったのですが、まもなく国内コンビニ業界は 資金力の面で特に優れていた3強(セブンイレブン・ローソン・ファミリーマート)が6割を占めてしまったので、ブルーマートやヤマザキデイリーストアなど規模の小さい所の店舗は次々閉店してしまい、そちらで働いていた従業員は仕事を失ってしまいました。3強はフランチャイズ・システムを採用していたので、彼らをフランチャイジー・社員として迎え入れることにより、コンビニ経営のノウハウを学ぶ事ができました。
そのため、ファミリーマートは1986年から、店舗が発注した商品(特に賞味期限の短い食品)が発注した翌日に届くという完璧な物流体制を確立する事ができました。セブン-イレブン・ジャパンは1992年までに、弁当・おにぎり・焼きたてパンを20℃に保ち、サラダを5℃に保ちながら、ともに1日3回配送する事ができるようになりました。ローソンでは1990年代から、原産地から食材を一括調達し自社で製品化して販売する事で、お茶やおにぎりなどを他コンビニチェーンより安く売ることに成功しました。

このように物流面・サービス面を追求したコンビニエンスストアは、2012年には年間売上高9.4兆円となり、年商規模では百貨店やスーパーマーケットを軽く超え 当時トップだった医薬品小売業の次のNo.2に輝きました。すると流石に大手商社もコンビニの存在を無視できなくなり、自社商品をコンビニ店舗で販売してもらう目的で、2017年2月に三菱商事がローソンを買収し、2016年2月に伊藤忠商事はファミリーマートを事実上買収しました。三井物産は、1980年代からセブン-イレブン・ジャパンに食材を保存する倉庫を提供したり 物流システムの構築に協力しています。
商社は物流のプロなので、商社と協力することにより、コンビニチェーンの物流面での改善がさらに進みました。コンビニチェーン各社は儲かるようになってきたので、惣菜メーカーであるわらべや日洋やカネ美食品などに出資することができ、メーカーはその資金を使って設備投資することができ、より品質の高い商品を作れるようになりました。

以上のように物流の効率化・商品の品質を向上させる取り組み をしっかりする事ができたので、2019年当時全国に5.8万店あったコンビニは安く品質の良い商品を販売できるようになり、こちらは国内の外食企業にとって大きな脅威となりました。コンビニに客を取られてしまうため、外食企業は売上を確保するために長時間労働・接客サービスの向上などをせねばならなくなり、その影響で「外食企業の仕事はきついので避けるべき」と考える求職者が増え、外食業界は人手不足になってしまったのです。くら寿司を含む外食企業は従業員の給料を上げてなんとか人手不足問題を解決しようとしましたが、現実は厳しく、2020年になっても飲食店の人手不足は続き、2019年のはじめまで上がり続けていた回転寿司の1世帯当たり消費額は、以降下がり始めました。

その上、2020年1月から国内でコロナ禍がはじまり、店内飲食の減少・インバウンド需要の消失が起き、くら寿司の売上高は「2019年度:1361.3億円」「2020年度:1358.4億円」と減ってしまいました。2020年にはアメリカの多くの州でレストランやバーの営業が禁止され、その影響でくら寿司はアメリカの店舗を全て閉店せざるを得なくなりました。
しかし、コロナ禍の影響で販路が減少し、出荷できずにいた愛媛県産の養殖真鯛200トン(京都の高級料亭用など)を養殖業者から安く仕入れ、そちらを使って『絆真鯛塩〆炙り』寿司をつくり、2020年10~11月の期間限定で100円で提供したところウケたり、これまで開発・導入を進めてきた「鮮度くん」や「レーンから取った皿の枚数を自動カウントするセルフチェック をはじめとする省人化」などが再評価されたりしたため、日本国内では1年間の売上高が、2020年時点での過去最高値より増えました。
2020年のくら寿司の貯金(現金等)が2018年より40億円ほど増えたので、その資金を使って、くら寿司は2020年の店舗数を2019年より100店以上増やすことが出来ました。

田中社長は
「くら寿司でも酒やサイドメニューが充実している今、くら寿司はファミレス・居酒屋の役割を果たすことができる。ファミレスや居酒屋などが次々閉店し空き物件が増えている今、その物件を借りて店舗展開をしまくれば、それまでファミレス・居酒屋に行っていた人をくら寿司の客に取り込むことができる」
と考えました。
国内・米国・台湾で大胆な店舗展開をしたため、同社の2021年・2022年の現金等は2020年より減ってしまいましたが、同社の売上高は「2020年度:1358.4億円」「2021年度:1476.9億円」「2022年度:1830.5億円」「2023年度:2114.1億円」と増えていきました。
さらに海外出店も加速させたため、2023年度のくら寿司売上高合計の22.5%をアメリカ・台湾・上海の店舗が出すようになり、海外で売上・利益を上げることができるのでくら寿司は国内で人手不足・人件費上昇などの問題が起きても成長を続けられるようになりました。

くら寿司は今後も、インフレが激しく消費が振るわない時は多いものの、売上高が2021年度から年々増えているアメリカで店舗展開を進め、コロナ禍が明けてインバウンド需要が増大した日本でも、積極的な店舗展開を進めるようです。
ちなみに、くら寿司の国内店では2017年から煮干しや昆布 出汁醤油から作られたオリジナル『くら出汁』が販売されており、「ひつまぶし風豪華茶漬け」などのくら出汁を使ったアレンジメニューのレシピがSNSで話題になったり、今話題の歌い手・Ado氏とコラボし一般の人からもアイデアを求めながら くら寿司テーマソングを制作することが決定したりなど、くら寿司は話題に事欠きません!

今後 くら寿司社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。

次回は、回転寿司店を全国展開する、かっぱ寿司の歴史について解説します。
お楽しみに


まあに店主

サムネイル内で使った画像の引用元:
https://www.jmca.jp/prod/teacher/1292

https://www.kurasushi.co.jp/history/index.html

https://www.axismag.jp/posts/2020/02/173943.html

その100円が、まあにのゼンマイを回す