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加古川周辺になぜ木工業が発展してきたのか。



加古川とはどんな川?

私は加古川市育ちなので、子供の頃から加古川の河川道を走り、河川敷で遊び、川を横切って育ちました。
だから加古川と言えば加古川市の象徴!と思っていたのですが、実はそれにとどまりまらないようです。

加古川の幹川流路延長(河口から水源までの流路の延長)は96km、流域面積1,730km2の一級河川。

朝来市山東町と丹波市青垣町の境界にある粟鹿山(標高962m)に発し、
丹波市山南町において篠山川を合わせ、西脇市において杉原川と野間川を、小野市において東条川、万願寺川を合わせ、さらに三木市において美嚢川を合わせながら播州平野を南下。
高砂市高砂町向島町で瀬戸内海播磨灘へと注いでいます。

加古川流域の人々にとって、川は資源であり仕事であり産業であり生活であり。
私が想像していたよりはるかに大きな存在です。

水運としての加古川

加古川を利用した水運が本格的に整備されたのは16世紀末のことです。豊臣秀吉が天下統一を果たし、大坂(大阪)に拠点としました。

そのため丹波・播磨の内陸から大坂に年貢を運ぶ必要がありました。それには当時は陸よりも川を利用した水運が便利で早かったのです。

1594年秀吉は家臣の生駒玄蕃に、加古川の闘竜灘より南の川底の岩石を取り除く作業を命じました。闘竜灘は奇石・怪石が加古川の川底で起伏が連続し、
岩に阻まれた川の流れは激流や滝を形成しています。

今では滝野の名勝として知られる闘竜灘も当時は水運の障害になっていました。

江戸時代になると、姫路藩主・池田輝政は、闘竜灘の北の岩石も取り除く事を命じ、高砂の運河や船着場も整備していきました。

加古川を利用した水運にはどんな船が用いられたのでしょうか?

川の浅瀬を交通・物資の輸送に適していたのは高瀬舟でした。大きいものだと全長11m、幅2.4m、30石の米を運ぶことが出来ました。

米に限らず、シイタケ・こんにゃく玉・菜種など様々な農作物が運搬され、江戸後期になると、加古川沿岸には37ヶ所の船着場が作られ、300艘の高瀬舟が往来していました。

現在の加古川は中州で休む鳥以外見つけることがでしないくらい静かです。

10m近い高瀬舟がひっきりなしに往来する加古川を私は想像もできません。

高砂の船舶製造業と木材の運搬 

その300艘からなる高瀬舟はどこで作られていたのでしょうか?

加古川は現在の高砂市を最下流に、瀬戸内海播磨灘に注ぎます。それ故に高砂では古くから海運業・船舶製造業が盛んでした。

高砂の船舶製造業の木材調達にも加古川の水運が大きく関わっています。

加古川を利用して内陸部から大量の木材を調達し、運搬して船舶を作っていました。

そしてその木材の輸送は高砂の船舶だけでなく、川沿いでの加工業・商業などの業種も生み出しました。

加古川沿いに木材を集積し加工するための施設が数多くできたといいます。また、加工された工芸品などは水運を使って流通されました。

加古川は地域経済に大きく貢献したのです。

江戸時代は船座という組合が設けられ、船主たちは高い使用料に苦しみましたが、明治維新になると船座が廃止となったため、新規の舟主が増加。
闘竜灘の開削工事も進んだので、加古川の水運はますます活発になりました。

加古川水運の衰退

1899年阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が開通。
陸運の輸送網がしだいに発達し、比例して加古川の水運は徐々に減少。大正期には衰退してしまいました。

それに伴い、高瀬舟も必要がなくなってしまい、高砂の船舶製造業も次第に縮小されていきました。

しかし、加古川周辺地域に根づいた木工業はこの後も発展することになります。

加古川市八幡町国包の建具
加西市の家具
小野市の家具、工芸品

木材の調達方法は加古川の水運から陸運、海外へと変遷していきましたが、そこで培われた木工の職人の技術は変わらず受け継がれていきました。

まとめ

豊臣秀吉は太閤になると「検地」を行い、税を合理的に無駄なく納めさせる仕組みを作りました。

そしてその税をより早く便利に大坂に運ぶことができるよう加古川の水運を整備していきました。

そのための運搬用の高瀬舟が加古川下流の高砂市で製造。その木材運搬にも加古川水運が利用されました。

その結果、加古川流域の加東市・加西市・小野市・加古川市に木材が調達され木工業が発展していきました。

全ては隆盛し、そして衰退していきます。

加古川流域で根付き発展した木工の工場も年々少なくなっています。

加古川の水運は鉄道や陸路に代わりましたが、木を加工して工芸品や商品に仕上げる技術に代わるものがあるのでしょうか。




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