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写真を撮らないということ

 カメラの良いスマホが普及した今、Googleフォトの容量が有限になったとはいえ、カメラオタクでない一般の人でも何でもかんでも写真に撮ることが多いと思います。旅の思い出、子供の成長、料理など。私もそうだったのですが、20年近いカメラ趣味を通じて最近では「主体的でない・理性的でない撮影」は不要との考えが出てきました。一旦、なんでも写真を撮るのをやめてみませんか?

写真を撮るということ

写真を撮る順序は、通常以下のステップに分けられると考えます。

 ①何かを目で見る・何かが目に入る
 ②脳がそれの写真を撮りたいと思う
 ③カメラ(スマホ)を向ける
 ④構図・シャッタースピード・絞り等の設定を考える
 ⑤ピントを合わせシャッターボタンを押す
 ⑥撮像素子が露光される
 ⑦素子の電荷を処理して記憶媒体に保存される

それぞれのステップを考察する

①何かを目で見る、何かが目に入る
 これは写真を撮りたいと思う気持ちの最初のトリガーに対して、主体的か、そうでないかが問われています。偶然出会った珍しいものが目に入った場合に撮りたいと思った時、写真の価値は「珍しい瞬間」にあり自分にはありません。事故事件や珍しい動物などは、いいね稼ぎはできるかもしれませんが、価値はないので撮るのをやめましょう。自分の写真を撮るためには周囲の様々な現象に五感を集中し、意識を向けることが大切と思います。(意図的に事件事故を探す報道や、珍しい動物などを探すプロ写真家や学者はそれ自体が仕事なので別の話です)。しかし、これらを理解し常に何かに備えている人であれば珍しい瞬間をも自分のものとして消化することができると思います。私はそのレベルではありません。

②脳がそれの写真を撮りたいと思う
 
さて、あなたが周囲に目を向けると、綺麗な花や鳥、珍しい電車・飛行機、紅葉、富士山、銀河、美味しそうな料理、有名な世界遺産、かわいい動物、かわいいモデルさん、自分の子供、インスタ映えするカフェ、渋めの現像で絵になりそうな東京の路地がありました。途端に写真を撮りたいと思い、カメラ(スマホ)を取り出しました。
 果たして撮る価値があるでしょうか?ほぼないと考えます。それらの写真は綺麗な写真にはなれども、被写体が強すぎるため撮っても撮影の動機の主体が被写体になってしまい自分にはありません。脳には意識と無意識、理性と本能があり、これらの場合ほとんどが無意識的に本能が撮りたいと願っています。人間には生存競争の結果、強い収集癖がありなんでも集めたい力が働きます。それ故、写真として集めてしまいます。クラウドストレージでほぼ無限に溜められてしまいますのでフィルムやデジカメ黎明期とは違い、ますます抑えられないでしょう。そのような写真はインターネット上にゴマンと溢れており検索すれば出てきます。シャッターを切る前に本能的でないかを意識的に確かめることが大切と思います。(ミラーレスカメラの連写性能がここのところ急激に上がっているのは、コレクションの本能を刺激し、理性を破壊し、脳内麻薬で欲求を満たす効果があるからと思います。落ち着くためにもなるべく単発で撮るのが良いでしょう)。
 また旅の写真や子供の写真は思い出になるという方もいるかもしれませんが、写真という形で過去を蓄積しすぎると現在や未来の足を引っ張ります。昔はよかったとかのノスタルジーは精神の健康に有害で、ありのままの現状を直視できなくします。昔の旅や昔の子供よりも、今に集中しこれからの旅や子供を大切にしたいではないですか。

③カメラ(スマホ)を向ける
 割愛。

④構図・シャッタースピード・絞り等の設定を考える
 あまり主体性とは関係無いので読み飛ばしてください。まるでコピペしたように、様々なブログで日の丸構図はダメだとかシャッタースピードや絞りを操ってこそ脱初心者の写真だ、と言われています。果たしてそうでしょうか?写真投稿サイトを見てください。構図が良く、白飛び黒潰れしていない綺麗な写真がたくさん並んでいます。絞り開放の綺麗にボケた写真が並んでいます。でも一体どれだけの綺麗な写真たちが心を動かせるでしょうか。綺麗な写真は勉強すれば誰でも撮れます。撮りたければ止めません。技巧に走ると何を撮りたかったのかが疎かになり「綺麗なだけの写真」が撮れます。とりあえずは中央1点AF中央重点AEでPモードにしておいて設定など考えない方がいいです(そもそもスマホならその辺も基本的に触れませんが)。補足で、画素数の高い写真で得られる感動も画素数が高いということだけでしかありません。現像ソフトが進化した今、1200万画素で十分です(ガバサク論者ではありません)。

⑤ピントを合わせシャッターボタンを押す
 最近は機械学習で人間以外にも勝手にAFが合うようになりましたが、職業カメラマンでも無い限り、前述のようにそのような被写体は取る必要がないでしょう。実に欲深い機能ですね。もし精緻なピントの良し悪しでその写真の評価が決まるのであれば、その写真は綺麗さだけが焦点になっているってことです。ピントだけに。

⑥⑦
 割愛。(疲れたのと人間に関係がないので)

まとめ

 写真はツイッターやインスタグラム等により、資本主義的広告収入と引き換えに市民の本能的欲求を刺激し満たすための装置にされてしまいました(元々そうだったのかもしれませんが)。このような時代だからこそ、理性をもって欲求と向き合うことが大切なのではないかと思います。なので、何でもかんでも写真を撮るのはやめて、シャッター切る前に自分と向き合ってみてください。


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