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父の死から教わったこと-人はただ居なくなるだけじゃない

前回、余命1ヶ月の告知を受けた父に、看護師の娘が決めた「最期のプラン」について書きました。

余命1ヶ月の告知を受けた父の記事はマガジンに綴っています。今回は父が亡くなった後のことを書きます。



1.父の葬儀

主治医の先生は、精査目的で入院したその日に身内だけを呼んで、余命数ヶ月と告げました。翌日、本人には余命1ヶ月と告げました。それは先生なりの配慮で、父が自分で動ける時間を告げてくれたのだと思います。そして父は1ヶ月半後に他界しました。

私は母も兄妹もいないため喪主でした。まだ嘱託として働き、自覚症状すらない状態での余命告知だったため、会社の方たちは驚いて多くの方々が葬儀に参列してくださいました。

父は20年以上前に離婚しており、その後ご近所さんとの付き合いに気遣っていました。皆が嫌がる自治会の役員を引き受けて、地域のお祭り用の布団太鼓を新調するために寄付金集めなどしていたため、「ああ、せのさんところの娘さんね」と誰もが父を通して私を知ってくれていました。そしてご近所さんもバスをレンタルして、多くの方が葬儀に参列してくださいました。

父は生前、家の近所の小さな葬儀屋さんでの葬儀でいいと言っていましたが、2月の寒い時期だったので、私は駅前の便利な場所で、ご来臨下さる方が寒くないよう大きなビルの葬儀屋さんを使わせていただくことにしました。



2.49日まで泣き明かした

私は一人っ子で、身内は叔母以外いないため、職場に無理を言って49日まで休ませてもらうことにしました。そして49日が終わるまで泣くことを決めて、毎日お仏壇の前で泣き続けました。

うちは禅宗の曹洞宗のため、手間のかかる儀式が多数あります。宗教は、人が悲しみの淵に落ちてしまわないよう、初七日が終わるまでわざと忙しいようにしてあると聞いたことがあります。

ですが現代人は感情に蓋をしてしまう習慣があり、私は悲しいときは、ちゃんと悲しむべきだと思いました。忌引が7日間しかないというのも、感情に蓋をする要因になっていると思います。せめて人の死に関わる病院くらいは、職員の親が亡くなったときは悲しむ時間を考慮してほしいものだと思います。

ただ、出口を決めておく必要があります。なぜなら悲しいときは、実は泣いている方がラクだからです。人と会うには自分を取り繕わなくてはならないので、しんどいんですね。なので出口を決めておかなければ、私は社会復帰できないような、悲しみの淵におちてしまいそうな気がしたからです。

そして、ちゃんと悲しんでこそ見えて来る世界があります。



3.初めて知った父の働き方

初七日が済んでしばらく経った頃、父が30年務めていた会社にご挨拶に行きました。すると、父の部屋のデスクには花が生けられ、お数珠を置いてくれていました。そこで私はさまざまな人から父の話を聞くことになったのです。

父は長い間、労働組合の活動をしていたそうです。そしてバブルがはじけて大リストラが起こったとき、こんなふうに言ったそうです。「障害のある人を残せ。わしはリストラになってもいい。だけど障害のある人は他での採用は難しいから、優先しないとダメだ」と、自分の将来も不安なのに他の人を守ろうとしていたそうです。

そして父が嘱託として戻ってきてほしいと会社から言われた後、父の仕事部屋が準備され、秘書を雇ってもいいという話になったそうですが、父はあえて脳梗塞で片麻痺のある人を採用したそうです。そんなことがあったなんて、私は一度も聞いたことがありませんでした。

また父の部屋は、パートのおばちゃんや新入社員の駆け込み寺のようになっていたらしく、仕事で悩んでいる人の相談相手になっていたという話も聞かされました。ああ、それで花を…と思いましたが、同時に今の自分の活動を思い出し、わたし、父の血を継いでいるんだなと思いました。

父はいつも出勤したらまずモーニングに行って、皆で世間話をするらしく、私は(大丈夫か?ちゃんと仕事してるんやろか?)と思っていました。バレンタインデーにはチョコレートをいっぱい持って帰ってきたり、若い人たちと突然スキーに行ったりするのを見ていて、(何やってんだろ?理解できない…)と思っていましたが、合点がいきました。

あなたは自分の親のこと、どれくらい知っていますか?
親が何をもって嬉しいと感じ、何をもって悲しいと感じるか…
そんな話をしたことがあるでしょうか。



4.亡くなった後に見えてきた生き様

父は私の知らない間に、ハンセン病(らい病とも言う)の療養施設に何度か行っていたようでした。その昔、全身に及ぶひどい皮膚病で、生きながら鼻や指がボロッと取れてしまうような恐ろしい感染症とされていたため、罹患者は療養所に隔離され、死ぬまでそこを出ることはありませんでした。

現代になって感染症でないことがわかり、国は療養所を解禁しましたが、周囲の理解が及ばず、また長い間隔離されていたため人生を取り戻すことも出来ない人たちが、ずっとそこで密かに暮らしていました。父はそういう所に通い、どうやら話し相手(今でいう傾聴?)に行っていたようでした。

この話をしてくれたのは唯一の身内である叔母(父の姉)でした。叔母は世間の目を気にして、行かない方がいいと言ったそうですが、それでも父はやめなかったようでした。その理由は、叔父(父の兄)が脳溢血で倒れたあと植物状態で3年生き、そのとき自分は何もしてあげられなかった「償い」のつもりだった、ということでした。


また自宅に、身体障がい者の施設からニュースペーパーのようなものが毎月届いていました。父が亡くなったことを知らせた方がいいのかと思い、施設に電話したところ、女性の施設長が出て驚いていました。

父は、そういえば定年後、毎日8時間、週5日ボランティアに行っていたときが2年ほどありました。会社に嘱託として戻ってからも、ずっと毎月寄付をしていたことを知りました。もしかしたらそれも「償い」だったのかもしれません。

そして、その施設長さんはこんなふうに父の話をしてくれました。「せのさんと出会ったとき、私はパートで入ったばかりで、いろいろ悩みの多いときで、いつもせのさんに相談にのってもらっていました。今私が施設長をできているのは、あの時のせのさんのおかげなんです。」と。

もう、私の知らないことばかり。
私は父を失って初めて父を知ったような気がしました。

人は、ただ居なくなるだけじゃない。
生きているとき以上にその人を知ることができる。
そして生きているとき以上に、胸の中に色濃く残る。



5.大切な人を失ったときにやってほしいこと

大切な人を失ったときに、必ずやってほしいことがあります。それは、その人が残した物を一つ一つ手に取って見ることです。なぜなら、物はその人の過去を物語っているからです。

ああ、こんな物を大切にしていたんだなぁ。
ああ、こんな物買ってたんだ。
こんな本を読んでいたんだ…

そうして物を通して、心の中で対話をしてほしいんです。

父は多趣味だったので写真も山ほどありました。一枚一枚見ながら、ちょっと暗い表情をしている写真を見つけると、ああ、このときはああいうことがあった時なのかなぁって想いを馳せる。そうして私たちは物を通して、その人の"生き様"を垣間見ることができます。

たくさん泣いたらいい。
心の中でたくさん対話をすればいい。
そうして時間をかけて元気になったらいいと思う。



6.無言のメッセージがある

死は無意味なことではなく、大いに意味のあることだと思います。なぜなら、亡くなった人にしか伝えられないメッセージがあるからです。生きているときに、いくら言葉で伝えても相手は受け入れない。だけどもう二度と話せないからこそ、伝わるものがあります。

たとえば、私がいくら受講生さんに、こうした方がいい、ああした方がいいと言ったところで、その人はその人なりの選択をします。だけどもし、今私が死んだとしたら、きっとみな私の想いを引き継いでくれると思うのです。わかりませんが。笑

父は私に、身をもって"死は怖くない"ということを教えてくれたのだろうと思います。一晩の夜勤で受け持ち患者さんが3人亡くなったことや、過酷な想いをして最期亡くなられる人をたくさん見て来ました。阪神淡路大震災では何百という遺体を見て、それ以降私は"死を避ける看護師"になっていました。

基本的に人が死ぬことのない、整形外科病棟や透析室を希望して、そこでしか働かないと決めている私に、父が身をもって教えてくれたのです。それが、父が私にくれた人生の課題だと受け取りました。そうして今、私は介護や看取りの事業をしています。


7.終わりに

これから日本は多死社会に入ります。自宅でのお看取りや孤独死が圧倒的に増えていきます。そこに私の役割があるような気がしてならないのです。多くの人は死に背を向け、避けようとしています。だけどそうじゃない。悲しむべき時にちゃんと悲しまなければ、その時はもう二度と来ないのです。

だから出口を設定してちゃんと悲しんでほしい。そして心の中でたくさん対話をして、無言のメッセージを受け取ってほしい。それが、残されたあなたが生きていくための勇気になるからです。

どんなメッセージを受け取るかは、その人にしかわからない。
だけど受け取ったものは真実です。
勇気を出してその方向に進めば、なぜかいつも誰かがそっと背中を押してくれているような感覚があります。
そうして魂は引き継がれていくのです。


どうか、死を恐れないでください。
世の中が死を恐れているのは、私たち医療者が全身全霊で命を救って来たことが原因です。とことん命を救う反対側で、死は悪であるかのように思わせてしまっています。だから私たち看護師が、"死は怖くない"ということを伝えていく役割だと思い、記事を書いています。


そして、私は子供はいませんがー
自分が死んだあと、残される人に何が伝わるかを考えながら生き方を選んでいきたいと思います。

最後までご覧くださりありがとうございます。
もし私がお力になれるようでればお声がけください。


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