senri

Your joy is your sorrow unmasked.(Kahlil Gi…

senri

Your joy is your sorrow unmasked.(Kahlil Gibran)喜びは悲しみの素顔

最近の記事

父が壊れていく

桜木紫乃『家族じまい』の最終章「登美子」を読み終えた翌日のことだった。妹から電話があった。「おねえちゃん?」遠慮がちに確かめるようなよそ行きの声はそのまま長いブランクをものがたっている。妹の実母は私にとっては継母であり、事情はあるにせよ確執は深くまだ子どもだった私に愛情など注がれることはなかった。継母の激しい気性が浴びせかけた罵詈雑言は傷となって長年私を苦しめてきたのだし、戸籍が汚れているだの卑しい母親の血が流れているだの散々な言葉が繰り返し脳裡に塗りつけられ、その跡は時を経

    • きょうはいい日だ

      何気なくパラパラ捲ってみた詩集『聲』、詩のことばが放つ光を私は一瞬にして浴びてしまったようだ。「よい詩集ですね」レジカウンターで声をかけた。「そうなんですよ、僕も好きです」「養豚をしてる人なんですよ」その詩人について話す本屋さんはとても嬉しそうだった。帰り道、バスにゆられ、電車にゆられながら、まるでことばを食するように読んだ。詩のことばは種のようなものかもしれない。ふんわり落ちた場所でやがて芽を出す。木の根っこ、土、種種の生き物、そして人、寡黙なものたちの色々な聲が聴こえる。

      • 素朴な人々

        「僕、病気なんです。心の病気、分裂してるんです」Aさんにそう言われて「快くなるといいですね」当たり障りのないことばを咄嗟に返した。背中を丸め一番後ろの席に座った彼の身体は特有の臭気を放ち、衣服には繊維の隅々まで煙草の臭いが染み付いていた。その日、Aさんの様子がおかしいとアッシャーのMさんは何度も心配げに言っていた。「僕の嫁さんの時と似てるんですよ、希死念慮にとらわれてしもて、目が離されへんかったんですよ」消えることのない後悔と理由もわからぬまま逝かれてしまった喪失感が再びMさ

        • 感情って!

          些細なこと、場にそぐわない笑いで救われたこと、深夜の家族内の出来事を記しておこう。 怒りから出たものではない、それだけははっきりしている。むしろ胸の奥深く溜まりにたまった哀しみが激しく突き上げてきて、どうにも抑えることができなかったのだ。決壊してしまったら、その勢いはとどまることを知らない。背丈のある息子の両腕をギュっと掴む。撥ねのけもせず、じっと母親からの叱責を俯いたまま浴び続けている息子。人間の体温はこんなにも温かだったろうか、皮膚の下に流れる赤い血、脈打つ音がする、掌

        父が壊れていく

          妻と夫の間にあるもの

          時間だけは滞ることなく忠実に進む。近づいてくる年の瀬の足音は煩雑さだけをを運んでくる。毎年正月には親戚や父の仕事関係の人たちが年始の挨拶に我が家を訪れたものだ。父は決まって羽織袴で訪問客を迎える。家長としての威厳を帯びたその姿は子どもの目にも誇らしく、少しの緊張と晴れやかさが入り混じって何もかもがリセットされる新しい年の到来を意味していた。背筋の伸びた恰幅の良い身体からは凛として冷たい空気が辺りを清めるように漂っていた。妻を叱責する怒鳴り声を朝早くに聞いたのが、まるでなかった

          妻と夫の間にあるもの

          神の前に立たされて

          雨の朝、半分目覚めて、うつらうつらと微睡んでいる。眠っている時間は思考も停止しているのだろうか、 何も考えないでいられたら、どんなにか良いだろう、心は空っぽにできても頭は何某か考えてしまうものね。嗚呼、脳内でことばが蠢きはじめている、昨夜の続きを忘れてはいない。枕元には読み止しの『石原吉郎詩文集』がひろげられたままだ。 無益な思いわずらいから、弱り切っている頭を解放してやらなければならない。考えなければならないことが実に多いのに、そのための余力というものが、私にはほとんど残

          神の前に立たされて

          体の中に蟹が棲みついたの

          ガレージ脇の細い通路にうずくまった浮浪者を一瞥する、その身体に染みついた酷い臭気、すえたような臭いに、おもわず吐気をもよおした。もう何日もクッツェーの『鉄の時代』の中をさまよっている。暴虐の裏に貼りつく恐怖、憎悪を私は知らない。退職したラテン語教師が癌再発の告知を受ける場面から物語は始まるの。時はアパルトヘイト体制が終わりに向かう断末魔の苦しみの時代。大地の下に埋められた人々の叫びを足裏に感じながら、私は歩いている。たいがい本を読んだ後は、暫くその物語の中から抜け出せなくなる

          体の中に蟹が棲みついたの

          花のこと🥀

          いつの頃からか花を摘むことを躊躇うようになった。一括りに雑草と捨て置かれるような小さな野の花を可愛いと思い、罪悪感と憐憫とが入り混じり手が止まるのだ。野に咲いたなら野で枯れ落ちるのがよいと。そのくせ花屋さんでは嬉々として花を買う。背筋を伸ばし、冷たいステンレスの筒の中で美しい顔をあげて立っている、立派な名前をもつ花。やがて凋れてゆくさまを潔いとも哀れとも人の朽ちゆく姿に重ねて見てしまう。ドライになって壁に吊るされる花もあれば、小箱にしまわれるものもある。小箱の蓋を取った時、微

          花のこと🥀

          太陽と土埃と汗のにおいを覚えていますか?

          夏草を刈るモーターのにぶい音が聞こえてくる。いつのまにか川べりの歩道は樹木に絡みつくほど背高になった草で半分ほど覆われている。時折小石をはねた高い金属音が混じり、可哀想に日陰に隠れていた虫たちは逃げ惑っているに違いない。淡いベージュの革のソファに軀を横たえ、エンボス模様の白い壁と垂れ下がった白いリネンのカーテン、揺れる光の影に囲まれ微睡んでいると、昨日の憂いなど何処かに置き忘れてきたような心地になる。夏の初めの匂いが網戸越しに三階まで上がってきた。なんとも言えぬ午睡のアンニュ

          太陽と土埃と汗のにおいを覚えていますか?

          離魂

          黄昏が近づき、長い夜の帷が降りようとするその真際、目前の空に青の色が深まり、たちまち縹色に染まる。青は闇に最も近い色だとゲーテは『色彩論』で説いている。縹渺として、この青の彼方には幽界でもあろうかと思い巡らすのは知り得ようもないあちら側を見定めたいと願う心からだろうか。修善寺で大吐血をした漱石が死と生を横断した件りが『思ひ出す事など』15章に記されている。終わりには「縹 渺 玄 黄 外」で始まる五言古詩が載せられており、妻によれば30分の間死んでいたというのだから、まさしく魂

          離魂

          舌の先まで出かかった名前

          多弁の虚しさから離れて一人池の周りを歩く。もの言わぬ生きものたちの声を聞こうと心を傾けるのは、自分の内に言葉を探すに等しい。初めてキニャールを読んだのは『舌の先まで出かかった名前』言語の失調が突き動かす物語ー人は絶望の淵にある時、黄泉の国の王にも見境なく縋る。暫くののちにやって来る悔いと怖れは心身をも食い尽くしかねない、唯ひとつ救いうるのは地獄の王の名を口にすること、その名を求めて地獄へと赴くーその展開は子どもたちにも聞かせてやりたいと思うほど面白い。tongue 、舌は

          舌の先まで出かかった名前

          ことば、歌うように、踊るように

          「馬鹿じゃないよ、僕は!」側頭部こめかみ辺りに親指を当て四指を勢いすぼめ首を横に振った。生成りの縄編セーターが端正な顔を一層引き立て、参加者の中でも目を引く存在だった彼、その声に聴者の何人かが振り向いた。覚えたての指文字をゆっくり口形に合わせ自己紹介をしようとした私に腹を立てたのは明らかだった。大人が子どもに笑顔で諭すようなやりようだと受け取られたに違いない。聾者の凝視するような眼の力に緊張と恥ずかしさで精一杯だった私にしても思いがけない反応だった―誤解、訂正されることのない

          ことば、歌うように、踊るように

          空の道、海をはしる舟の道

          考えれば考えるほど現に起こっていることが嘘のようで、高揚感と身体の疲労が交互に襲ってきます。あなたにしてもお腹から取り出された時は驚いたでしょうね、暗くて狭い部屋からいきなり無機質な光の下に晒されたのですから。眼は閉じたままで、顔全体が白い膜に覆われていましたし、それに息もしていなくて、私たちを慌てさせたのですよ。あなたが体を震わせ渾身の力を振り絞って声をあげた時、周りからは温かな歓声が上がったのです。鈴の音のような産声はギフトにふさわしく清らかでした。新しい子宮の揺りかごの

          空の道、海をはしる舟の道

          見知らぬ男

          催告書に記載されていた被相続人の男は母と同じ姓だった。とは言え、これまで面識もなく、その存在すら知らされていなかったのだから些か面食らっている。元より母方の親族と疎遠状態が長く続いていたのは遺恨を残す離婚劇の結果なのだと心がざわついた。一度は損なわれ、遥か忘却の闇に葬られた血の繋がりは一通の通知文によって再び流れを取り戻したかのようだ。その時不意に、そして自発的に、平野啓一郎『ある男』の思いも寄らぬ結末が脳内に立ち上ってきたのだ、戸籍の売買のこと。いきなり飛び込んできた事実に

          見知らぬ男

          幼馴染

          雨かんむりの下に敷かれた路は濡れているのね、露という漢字をまじまじと見ながら彼女は呟いた。涙には自浄作用があるのよなんてひとしきり泣いた後、私たちは何もなかったような顔をして次の朝を迎えたわ、遠い日を懐かしむ横顔は童女そのものだった。互いに歳を取り、人生の悲哀を知るようになれば、荷に貼られた札を見ただけで中身は容易に想像できた。もっと幼い頃、刺すような真夏の陽射しを浴びても川に身を浸せば声が漏れるほど冷たかったし、レンゲ畑に座り込んで編んだ花冠を被ればたちまち想像の物語が繰り

          幼馴染

          baby boy,もう少しだけ

          入院の知らせに慌てて病院まで車を走らせる。予定日まではまだ3ヶ月もあるはずなのに訳の分からない不安でハンドルに置いた五指が氷のように冷たく震えていた。胎盤、臍帯、それとも胎児に異常…? 周産期病棟奥にある重症個室の天井にはロボットの眼球のようなカメラが据えられている。胎児の心臓の音がドッドッドッと生きてるサインを送っている。確かに娘のお腹の中には生命が宿っている、やっと標準の半分程の500グラム、目も鼻も口もちゃんとある。 帝王切開の承諾書にサインした娘の口からは「死産も覚

          baby boy,もう少しだけ