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ブルックリン物語 #67 "In a Sentimental Mood"

この日の記憶は朧げでどこか切ない。

なんてことない平凡な1日であるはずだった。地下鉄に乗ってカイロプラクターのドクターの施術に行き肘や指や肩のコンデイションを整えていただいた。

終わって外に出ると春が見え隠れするのが気持ちよく、少しだけ風を受けて歩いた。その道すがらにあるデリに立ち寄った。ここまでは悪くなかった。次の打ち合わせまで時間があったのでさっくり「オイスターの唐揚げ」などを買って窓側のスタンド席で景色を見ながら平らげた。

まず体が整い気分が良かったのでこの日は冴えていた。小さな牡蠣が5つほど入った惣菜とおにぎりを1個頬張った。次のアポもうまく行き「仕事の話も終わったしとっておきの赤ワインを一杯いかがですか?」と言われご馳走になる。

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帰りの地下鉄は丁度コミュータータイムで混んでいたがほろ酔いで心地よかったのを覚えている。帰宅後ぴのご飯を済ませ溜まったメールの返事を書いた。カイロの日は眠くなるので早めにベッドに入る。そこらへんまではごくごく平均的な1日の流れだった。それが夜の10時過ぎ。

無性に寝汗をかき這うように起きてトイレへ行く。滞りなく済ませベッドへ戻る。しかしすぐにまたなんとも言えない不快感で再び。そうこうしているうちにひどい下痢が起こりほぼトイレから離れられなくなる。そのうち吐き気がしたので試しにバスタブを覗き込むとそのまま口からマーライオンだ。

尻から華厳の滝、マーライオン、華厳の滝、マーライオンを何度か繰り返し憔悴しきってキッチンまでやっとの思いで辿り着き水をカップで補給する。冷や汗がじっとり額に滲む。とりあえず収まったかのように思えたので、一旦ベッドへ戻りブルブル震えながらタオルケットに包まっていつしか気を失った。

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ただ寒いのか暑いのか汗びっしょりになってうなされ目が開いた。胸の辺りが苦しく這うようにトイレへ行きここからはひたすらマーライオンを繰り返す。たまに華厳の滝が混じるが、滝が続きすぎて下半身が麻痺してただお尻がキリキリ痛い。痛みはなんてことない平凡な1日の全てを逆流させ、それでもまだもっともっとと僕を攻めた。涙でグチョグチョになり肩で息をしながらやっとの思いでキッチンへ行き再びの水分補給。毒を出すのだ。その足でトイレへ直行。もう体から放出できるものは全て行ったのではないか。

おそらくあの小ぶりで安売りのお惣菜コーナーにあったオイスターの唐揚げで当たったのだ。あんなに身のほとんどない味もしない衣7割の牡蠣が大の大人を当てやがったのか。僕は今まで一度も牡蠣に当たったことがない。だからあたらないタイプだとタカをくくっていた。でもこれは完全に「大当たり」だ。

時計は夜中の12時を指していて既に次の日になっていた。外で嬌声が聞こえた気がするがどうでも良い。今日明日は家リハでその次の日トミジャズの本番がある。もちろん2セット。そしてそれが終わるとすぐに新しく組むトリオ、Ari Hoenig(ドラムス)、Matt Clohesy(アコースティックベース)Senri Oe(ピアノ)の初顔合わせリハが控えている。なんてことない平凡な1日に起こった突然変異の人生初の出来事は、僕から完璧に思考能力を奪った。

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もう一度効き目がないことはわかっていても、ベッドへうつ伏せで潜り込んで見るが痛みは寧ろどんどんひどくなった。吐きすぎて喉や胸が痛いのと下痢しすぎて尻が痛いのともっと奥の何かが痛むのがわかった。僕はER(緊急病棟)へ行こうと支度をした。

さっきの嬌声の主が歩道で熱弁を振るっている。どうぞ続けてくれ。近い病院まで数駅分歩くことにする。タクシーを拾う気力もなくただ歩を進めるならなんとかなると動いている脳で考えてテクテク歩く。実際にはトボトボだ。何度か止まりガベージビンや郵便ポストで息を整える。でまた歩き病院が見えてきた。

夜中とは言えひっきりなしに救急車がやってくる。賑やかなER入り口の自動ドアが見えた。横を緊急患者が担架に載せられ運ばれていく。開いたドアに続けて入る。どれほど歩いただろう。意識が朦朧としていたがあと数メーターで受付と思われるところに係員が立っている。そこまで頑張れ、ゴールは近い。ふらふらになりながら、

「緊急です。もう歩けないんです(本当に歩けなかった)」
 倒れかかるように懇願するも、
「受付をして」
「受付は?」
「これまっす線に沿って行って。それでぐるっと方向転換して戻って。それから係りの人に聞いて」

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