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1軒目:レディ・ジェーン

駅から歩いて約5分。駅前の喧騒を抜け、少し視界が開けたあたりの場所に1975年から店を構えるジャズバー、〈レディ・ジェーン〉。故・松田優作さんをはじめ数多くの俳優やミュージシャン、アーティストらがこよなく愛し、今も昔も変わらない“芝居と映画とジャズと酒の店”のオーナー、大木雄高さん。70年代後半よりさまざまな音楽イベントを企画し、「演劇の街シモキタ」の礎を築き、2017年には映画『下北沢で生きる SHIMOKITA 2003 to 2017』も手掛けた大木さんに、開店当時の思い出を伺いました。

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店のオープンは1975年の1月。僕は学生時代から演劇にはまっていて、ずっと劇団とバイトに明け暮れる生活を送っていたんです。劇団は主宰していても30歳を前にして「このままでいいのかな」と将来を考え始めた。ちょうど劇団がうまくいかなくなってきた状況も重なり、そろそろ生活を安定させようと。そこで自分に何が出来るかと考えた時に、ジャズと映画、そして演劇が好きってことで、それぞれの話題や議論が飛び交うようなジャズバーを作ろうと考えた。もちろん酒も好きでしたからね。だから何か大きな志を持って店を作ったんじゃないんですよ(笑)。

下北沢は以前からよく来ていて、好きな街でした。最初に来たのは66年の春だから20歳の頃。元々は新宿でしょっちゅう遊んでいて、そこと比べると歩いている人もお店の数も全然少なかったけど、どこか新宿と似たような街の匂いを感じたんですよ。ひとつひとつのお店に主張があったと言うのかな。その頃はジャズが一番尖がっていた時代で、昼はジャズ喫茶の〈マサコ〉。夜になるとスズナリ横丁の手前にあった〈良子の店〉ってジャズバー。もちろん他の店にも行ったけど、その二軒は足繁く通いましたね。

新宿も若者の街だったけど、当時の下北沢は夢見るパワーと言うか、ここから何かを始めようとする人たちの活気に満ち溢れていた。絵描きにデザイナー、ミュージシャン、写真家に小説家なんかを目指す若手の卵がたくさんいたわけ。狭い街で店も少ないものだから、そんな連中としょっちゅう出くわして自然と会話を交わすようになる。そうやってコミュニティが自然発生していました。その感じは現代の下北沢にもしっかり残っていると思いますよ。今も昔もそうだけど、この街は余所余所しくしたり、スカした態度を許さない雰囲気がある。変に気取ったお店もないし、有名無名関係なく、狭いお店でみんな肩を寄せあって同じ目線で話せるというかね。だから面白いんですよ。渋谷はここから電車でたったの5分だけど、あっちではそうはいかないでしょう。

そうして新宿よりも下北沢に通う機会が次第に増えていくんだけど、新宿もゴールデン街は特別な街でした。<薔薇館>という店に22歳の1967年に初めて行ったのですが、どの店を覗いても店主と客が一緒になって議論を交わしている。相手が「論」を持ってきたら、こっちも「論」で返す。それなりの覚悟を持ってお店に入らないといけないわけで、すごく刺激的だった。こういう場はいいなあとずっと思っていて、その後自分が店を作ろうと思った時にもゴールデン街をイメージしましたね。

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実際にお店作りを始めたのは1974年の秋頃。そこから急ピッチで無手勝流で進めたんだけど、いろんな人に頼み込んで資金をかき集めてもまだ足りない。それで内装だけ自分たちでやったんです。僕は劇団で舞台の建て込みをやったり、アルバイトでNHKのセットを作った経験はあるけど、店一軒手掛けるほどの心得はない。だから友人の腕利きの舞台美術家を棟梁替わりにして、「幾ら払えるかわからないけどやってくれるか?」と頼んだら。そうしたら「面白そうだからやるよ。ただしひとつ条件がある。払いは少なくてもいいから毎日飲み食いさせろ」って(笑)。彼には何となくイメージしていた「重厚感のある空間」を作ってくれとお願いして、こっちのイメージ図を設計図に起こしてもらってね。やはり日数はかかったんだけど、重厚な中にもどこか素人っぽい感じが残る空間がようやく完成したんです。スピーカーボックスも自分たちで部品を調達して作りましたし。来てくれた人はその手作り感がいいって言ってくれましたね。

オープンして最初の2か月くらいは来客も演劇関係の繋がりばかりで売り上げもさんざんだったけど、どんどん口コミで評判が広がってね。演劇や映画関係はもとより、芸大生の連中が大勢来るんですよ。で、そんな連中が映画論や演劇論を交わしていると、周りの見ず知らずのお客さんもどんどん乗っかっていくわけ。まさしくゴールデン街にあるお店が少し広くなった感じで、狙い通りの空間になりましたね。僕は商売に関しては素人だけど、議論と議論がぶつかり合うような酒場は駅前では絶対無理だと思っていた。だから最初にここを内覧した時に、それまで見た中では駅から一番離れていたし、45年前は本当に何もない場所だったけど「うん、ここにしよう」と。当時はお店の先にある代沢三差路の交差点までが「下北沢」という認識だったから、ぎりぎりエリア内というのも大きかったですね。

これは余談ですけど、旧日本軍で終戦後もフィリピンに残り、74年に29年ぶりに帰国した小野田寛郎少尉という人がいたんです。帰国の際は国を挙げての大歓迎だったんだけど、次第に見世物のようになってしまった。それに嫌気がさした小野田さんは一族郎党を引き連れてブラジルに移住することになるのですが、実はその親族の方がオープン当初店の隣にあった食堂を営んでいた。それは後になって知ったんだけどね。で、移住に伴い食堂を閉めると言うので隣に空きができた。そこでそちらの店舗も借りることにして、壁を抜いてお店を拡張したわけです。それがオープンから3年後、78年初頭で、そのタイミングで作り方を特訓してカクテルも出すようになった。ショットバーからカクテルバーに移行したんです。

もうオープンから45年近く経ちますし、その間内装も外装もいろいろ変わってしまって、いま開店時のまま残っているのは入口のドアだけ。ドアには小さな嵌め殺しの窓を入れて、そこからしか中を覗けないようにした。さらに当時はドアを開いたところに衝立を立てていたので、店内の様子が一切見えない。すると通りすがりで入ってくる人はまずいないわけです。

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とにかく来たい人だけが来るような店にしたいって思いは最初からありましたね。芸大生繋がりで当時現代音楽をやっていた坂本龍一や、のちに駒場の東大に通う野田秀樹、演劇仲間だった蟹江敬三や石橋蓮司はオープン時から、みんな友達が友達を呼ぶ感じで来てくれましたよ。当時はとにかく毎晩のように「論」と「論」の争いが起きるものだから飲むピッチもどんどん速くなっていく。出していたお酒は安価なサントリーホワイトぐらいだったけど、まあみんなよく飲んでいましたね。で、議論が昂じると時には喧嘩も起こる。当然僕は店主だから止める側だけど、一本の映画、一枚のレコードを巡って論争をしているわけだから決して不毛な争いではなかったですね。

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レディ・ジェーンのオープンが75年の1月で、同じ年の暮れにすぐ裏側に〈下北沢LOFT〉っていうロック系のライブハウスがオープンした。するとそこのスタッフや出演者、ライブを観に来たお客さんもこぞってウチに飲みに来るようになったんです。それでLOFTのオーナーの平野悠とも仲良くなって色々話すようになって、北口にあったビートルズ専門のバー<独>などにも声をかけて手作りの音楽祭をやろうという話になったんです。78年の暮れのことでした。

後半に続く)

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プロフィール:大木雄高(おおき・ゆたか)
1945年生まれ。大学時代より小劇場運動で作・演出を展開し、70年代に劇団を主宰。75年にジャズバー〈レディ・ジェーン〉を開店。79年に「下北沢音楽祭」を立ち上げ、翌年には劇場〈スーパーマーケット〉を開館。下北沢演劇の草分け的存在となる。『下北沢祝祭行 レディ・ジェーンは夜の扉』などの著書を持ち、2017年公開の映画『下北沢で生きる SHIMOKITA 2003 to 2017』では製作総指揮を担当した。

お店の情報:ジャズバー〈レディ・ジェーン〉
東京都世田谷区代沢5-31-14 TEL 03-3412-3947
営業時間19:00~27:00、LIVE(土日中心)19:30~23:00。月曜定休

公式ホームページ http://bigtory.jp

写真/石原敦志 取材・文/黒田創 編集/散歩社


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