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インディゴの気分いろは俳句大会を振り返って。

世話人として俳句、川柳大会をやってみて、自らの不勉強を痛感すると共に、それでも私なりに好きな句を何らかの形で紹介したいなぁという、変な願望がわいてきた。

我が主戦場は短歌31字であり、それすらも初心者の域を出ず、まして俳句・川柳の17字は全くの門外漢である。
しかし定型詩にたまらなく惹かれる人間のひとりとして、文字制限のあるストイックな世界の良さをもっと知ってもらいたい気持ちは尽きない。
もともと短歌も寡作であるのだが、実は作るより読む方が好きだったりする。だから大会などをぶち上げてしまうのかもしれない。

そしてこの会に参加して、骨を折って作品を作った方にも「あなたのこの作品が私にはかくのごとく響きました」というメッセージは、多分嬉しいものだろうと思う(ちがったらごめん)

と言うわけで無礼千万を承知で、ただの世話人が何句か紹介するのをご容赦願いたい。
これは句の優劣ではなくて、選者の好み百パーセントであることも、先にお断りしておく。
従って季語やら切れ字やら、テクニカルなことは殆どスルーである。

俳句大会は67句の投稿を頂いた。
その中から僭越ながら3句を選んだ。

○「好きだよと許されて散る花吹雪」sakura

インディゴいろは俳句会終盤【す】の句だ。
ドラマを見ているものには、わかりすぎるほどの、六話のあのシーンである。
しかし、この句はドラマなしでも成立しうるだけの深みがある。

句の中で好きだよと許されるのは「城戸」であるが、句の最後で許されて散っているのは「桜」である。
散る桜が花吹雪となって読者の眼前を覆う時、凄艶なカタルシスが城戸も理生も無常な世も、なにもかもを許していく。
心情はさることながら、無限に広がりのある情景の見える句として素晴らしいと思う。こういう句に出会うと、定型詩はやっぱり止められないなぁとつくづくと思う。

○「うゐすきーの琥珀に絡む雪の指」ヨル。

後に【ゐ】から【う】にエントリーし直した句。
正直に言うと秀句だったのでふるい落とすのが惜しかった。世話人の権限をダメな方向に使ったことはお詫びしたい。すんません。

6話のバーのシーンであることは言うまでもないが、この句には色と温度と艶がある。
別に理生の指が特段白い訳でもないし、雪などどこにも出てこない。でも、指で氷を撫でるあの場面に、冷たい素手で不意に素肌に触れられるような、身のすくむような感覚を覚える人は多いだろう。
それが危うさなのか、エロさなのか、怖さなのか解釈は様々だが、そこを雪という冷たく白く高潔そうなもので表した部分は、お見事と言うしかない。
冬の季語だけの存在として甘んじないその雪は、惜しげもなく琥珀色の液体にまみれる。エロさなど表面に微塵もないのに、やたらと淫靡な空気があるのは、言語のチョイスと組み合わせの妙だと思う。


○「爛漫の春焦がれる手に与えられ」harry

中盤【ら】の句である。実は【ら】は外来語が多くて俳句にはハードルが高い。一単語が長いのである。
字余り字足らずにはとかくセンサーが過敏な世話人であるが、この句はアリだと思った句。
結句の「与えられ」の余韻がたまらない。
与えられてどうなったのかは発句の爛漫の春が引き受けていて、主語である誰かの幸福度が高い。爛漫の春という、最上に喜ばしいイメージによって「焦がれた私」が救済されるのだが、喜びの頂点である(つまりあとは落ちるだけの予感がする)「爛漫の春」が影になって、余計に瞬間到達点としての喜びが浮き立つ気がした。
もちろん、これは読み手のただの深読みかもしれないのだが。

まずは先行の俳句大会より選ばせてもらったが、ここに選ばない句でも、この表現は凄いなとか、美しいなと思う句はまだ沢山ある。
読む人それぞれに世界があり、リズムがある定型詩の世界。経験に関わらず、傑作が生まれることもあるので、皆様もぜひ次回の大会に、ご参加下さい。


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