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あなたが吉岡里帆と結婚できる可能性

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 自分が吉岡里帆と結婚できる可能性ってどれくらいあるんだろう? と考えたことはないだろうか? 0.01%くらい? もうちょいあるかな? どう計算したらいいか検討もつかない。
 お遊びとしてこのような可能性を考えるのは良いが、以下のような場合はどうだろう?

 ある町で、今年度の予算配分について会議が行われている。

A氏「近年、大雨による洪水が増えている。今年も豪雨に見舞われる可能性がある。都市排水のための予算を増やそう」
B氏「雨よりも、テロほうが被害が大きい。テロの可能性を考えて、テロ対策予算を増額しよう」
C氏「それを言うなら、外国が核ミサイルを打ってくる可能性がある。命は何よりも大切だ。全て核シェルター建設の予算にしよう」
D氏(吉岡里帆と結婚する可能性があるけど、そうなったらどうしよう……仕事やめて専業主夫になろうかな……)

 これは、収集がつかなくなる予感がぷんぷんする(会議に集中していない奴もいる)。この調子でいくと、様々な"可能性"が無数に出てきそうだ。それらについて延々と議論しなくちゃならないのだろうか?

 このように、なんとなく使われがちな"可能性"という言葉だが、実は2つの意味があり、ごっちゃになって使われていることが多々ある。その2つとは、何かを議論する際に「考慮すべき"可能性"」と、「考慮に値しない"可能性"」である。「考慮に値しない"可能性"」も議論に含めてしまうと、えんえんと議論が続いて、判断ができなくなってしまう。

 この記事では、2つの"可能性"を、どのように区別し、どのように判断していくべきかについて説明する。

明日ライオンに襲われる"可能性"

 この例で考えてみよう。あなたが好きな女性をデートに誘ったら、「明日? ライオンに襲われるかもしれないしデートとかマジ無理」と断られたとしよう。あなたはどうすべきか?

 この例は、それが発生するために必要となる前提条件が整っておらず、その条件が整わない限りは絶対に起きないものといえる。これは、単に人間の頭の中でそのように考えることができる、というだけのもので、これは現実的に実現性があるとは言えない空虚な可能性だ(注1)。強調しておきたいのは、これは確率の大きさの問題ではない、ということだ。前提が整っていないため、確率の大きさを議論する資格がない、それ以前のお話である。チケットを買っていない宝くじは当たることはないのである。
 これが仮に現実性をおびるとしたら、例えば「ライオンが近所の動物園から脱走する」という前提が整ったときである。そうなって初めて確率の大きさの話ができる。

 よって冒頭の断り文句は認められない。あなたは熱心に説明し、デートするように考えを改めさせるべきである(注2)。

注1)論理学の世界でこれは、可能性についての現実的・具体的なものを捨象したもの、という意味で「抽象的可能性」「論理的可能性」とよばれる。

注2)しつこく誘うパターンでLINEブロックを食らう人がたまにいるので注意。

明日雨が降る"可能性"

 では、「明日は大気の状態が不安定で、雨雲が発達しやすく、西日本を中心に激しい雨が降るかもしれない。だからデートは無理かな……」と断られたとしよう。

 これは現実的に起こりうる話である。より正確に言うと、それが発生するために必要となる前提条件が整っているため、現実として起こりうる(注3)。
 よってあなたはデート日を雨が降らなそうな日に改めて、もう一度彼女を誘うべきだ。

注3)論理学では「実在的可能性」とよばれる(現実的に可能性があるということ)。

まとめ

 可能性という言葉を使おうと思ったときは、前提条件が整っているものか、そうでないものか区別して捉える必要がある(注4、5)そして、可能性という言葉を口にして何かを議論するのは、それが前提条件が整っているものについてのみ許される。
 繰り返しになるが、前提条件が整っていないものは、可能性がないと言っていい。吉岡里帆と結婚できる可能性についても、吉岡里帆と知り合うという前提条件が整わない限り、そのような可能性は全くない(注6)。

注4)この区別は固定不変のものではない。例1でも説明したように、「明日ライオンに襲われる」というのも、「ライオンが近所の動物園から脱出した」という前提があれば可能性として議論できる。小難しい言葉でいうと、「"抽象的可能性"が"実在的可能性"に転化した」となる。抽象的可能性は確率の議論はできず、実在的可能性に転化してはじめて確率として議論できる。

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(図:抽象的可能性が実在的可能性に、実在的可能性が現実に転化するイメージ)

注5)この区別を曖昧にすることによる詭弁も存在する。例えば、「ライオンに襲われる可能性があるので、家の防護柵を強化すべきだ」といった理屈は詭弁だ。くだらないと思うかもしれないが、これに巧みなセールストークが加われば騙される人も出てくるかもしれない。ライオンによる咬傷事件は日本でも数年に1度くらいの頻度で起きているようで、
0.3人(1年あたりライオンに襲われる人数)/1.2億人(日本の人口)≒0.0000008%
などと計算すればそれっぽい数字が出でくる。そしてこの数字を使ってそれっぽい資料を作り、「飛行機事故よりもリスクが高い!」とかまくしたてれば騙されて防護柵買う人も出てくるかもしれない。
 0.0000008%というのは、単に起こった出来事を全人口で割ったというだけの、ただ漠然とした数字だ。それが実際に、ある個人に起きる確率ではない。不特定のある個人にそれが起きる確率を言おうとすれば、具体的な根拠が必要となる

注6)「……かもしれない」という言い方については、論理は常識よりも圧倒的にゆるやかです。矛盾ではないならば、どんなに非常識なことでも論理的な可能性としては認められます。いまをときめく美人女優が私を熱愛しているかもしれません。論理的可能性というのはバカバカしいぐらい非常識な可能性も、矛盾していないかぎり許容するものなのです。
「論理の自由さ」とも言えるでしょう。論理的に考えていくことによって、常識にとらわれない可能性が見えてくることもあるわけです。 「論理的」であることは、ですから、「常識的」であることとは違います。

入門!論理学/野矢茂樹

参考文献

鯵坂真、梅林誠爾、有尾善繁(1987)『論理学―思考の法則と科学の方法』世界思想社
第4章「弁証法論理学」 10節「現実性と可能性」

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