見出し画像

SとR 第四章 Sの青年が戦地から戻る

私はふるさとに帰る
海に出てから船はよく揺れたが、数日経った頃にはH町に到着した
私は港から駅行きのバスに乗り、本州を南下する汽車に乗った
ふるさとまではあと数日かかるようだ
およそ4年ぶりの帰郷であって、戦争に負けた後この国に一体何が起きて、いまどういう状況なのかはよく分からないし、分かりたくもない気がする
例えばさっき私が通ってきた海は、いまは一体どのような名前で呼ばれているのだろう
ぼんやりと問いが浮かんだが、それに対しての何かを考える力は残っていないようだった
私は空いた車内を一瞥し、端の席に腰を下ろした
窓から見える季節は冬ではあるが、二年半居た異国の地の、どの季節よりもずっと暖かかった
私はそのまま目をつむったが、きっと眠れはしないと分かっていた
移動している間中、まったく眠れなかったのだ
一体何日眠っていないのだろう、と思う
なんにせよ、何かを考えるほどの気力はもうとうにないのだから、私は眠っているも同然である
そうだ、私は二年半前からずっと、寝ぼけているようなものであった

あの時私たちは戦地に向かう車両に乗って、原野を走っていた
明るいと敵に見つかるからと言って、日が暮れてから走りはじめるため、昼間は草むらで眠っていた
そよそよと頬に当たる風や草いきれは、どんな状況にあっても気持ちのよいものだった
夜走る時には、極力小さな光しか漏れないように加工したヘッドライトを付け、視界がほとんどない中でとにかく走った
自分たちがどこにいるのかもわからない、というか、どこか目的地があるようには思えないような走り方だった
戦況は悪いとは聞いていた
開拓民としてこの土地に渡ってきた同胞たちの状況も危うくなるかもしれないという

ある時、「兵隊さん、がんばってくださいね!」という高い叫び声が聞こえてきた
声が届いたのが先か、ヘッドライトの光が姿を浮き上がらせたのが先か、一瞬だけ確認出来た人形(ひとがた)は幼い子どもの手を引いた女で、身体中に荷物を縛り付けてどこかへ向かっているようだった
私は反射的に、荷台にあった物資を投げてやった
彼らはどこに向かっているのだろう
行く先があるのなら、私にも教えてほしかった
いつまで続くかも分からないまま暗闇を走り続けることに、正直私は飽きていた
仕事に戻りたい、と幾度思ったことか
そんなことを考えられるほど暇なのが戦争なのかとすら思っていた

しかしそれは突然に終わった
大きな川に近づいた時、私たちの車両はがっしりとした戦車に止められた
すると突然、私の隊の隊長が白い布を掲げ、大きく振りはじめたのだ
みながはっと息をのんだ
初めて目にする白旗を見上げながら、私は、そのずっと先にある、刺さるような日の光のまぶしさに気がついた
なんてよく晴れた日だろう

戦車から見慣れない顔つきの背の高い男たちが出てきて、私たちは外に出るように促された
殺される時には恐怖心でも湧くものかと思ったが、大柄な男たちが私たちの手を縛る手つきが思いのほか丁寧だったために、私の気持ちはだんだんと落ち着いていった
そしてもはや、やはり死なないのかもしれないなあ、などと感じていた

私たちを乗せた戦車は、何時間経ったかも分からなくなった頃に突然止まり、私たちは乱暴に外に出された
そこには広大な軍事施設のようなものが広がっており、私たちの同胞と思わしき兵隊たちが大勢、あれは数千人はいただろうか、ともかく無数の男たちが並んでいた
すると、どこからともなくひそひそと、「戦争には既に負けている」という声が聞こえてくる
私は、やはりそうなのかあ、と頷きながら、やっぱり死ななかったなあと思う

私たちはその後、極寒の地に輸送され、厳しい労働を強いられた
終わりの見えない日々で積み重なる疲れ、空腹、痛み、寒さ
あらゆる気力を失った私たちは互いに名乗ることさえなかったが、ポツリポツリと交わす話題は、決まってぼた餅のことだった
若い男たちであっても最初になくなるのは性欲で、次いで睡眠欲が消え、最後に残るのは搾りかすのような食欲だということを知った
そこで、「ぼた餅食いてぇ」の一言が辛うじて漏れてくるのである

病や飢えや寒さで死んでいく者も多くいたが、私はちょっと体調を崩したことをきっかけに、2年半あまりが経ったある日、不意にふるさとに帰れることになった
その時、私にはなんの感情も湧かなかった
ただ、この生活が終わるのだということだけが辛うじて理解された
帰路の一歩目を踏み出す時に、よろめきながら見た一面の雪景色が、何かの光の具合でチラチラと輝いたのを見た

私は汽車に揺られてふるさとに帰る
どこかの駅に止まった振動で薄目を開けると、痩せた女が乗ってくるのが見えた
彼女は私に近寄ってきて、「兵隊さん、ご苦労様です」と言って、大きな白米の握り飯をよこし、また降りていってしまった
私は予想もしないことに驚いた
握り飯のあたたかさが手の平に伝わり、じんわりと痛んでくる
一瞬しか見えなかった握り飯の女の姿が、暗闇で見たあの母子の姿と重なる
彼らは死んだのだろうか
米の濃いにおいが鼻の奥に届き、私は思わず嘔吐した
私は鼻水を垂らしながら泣いて、嗚咽し続けた
汽車はふるさとに向かう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?