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SとR 第三章 Rの青年が戦地から戻る

私はふるさとに帰る
ついに戦場に行かなかった私は、どうやら生きて帰ることになった
汽車は、生き残った兵士たちで溢れかえっていた
若い男たちがぎゅう詰めになった車内には汗のにおいが充満し、鼻の奥にツンと刺さる
私は思わず吐きそうになる
腹の調子が悪い
よろめきながら人をかきわけ、車内を進む
汽車の連結部分で、尻を出して糞を垂れる
走る汽車から線路上に落ちたそれは、瞬く間に見えなくなった
私はしゃがみ込んでいた体勢から前傾に崩れ、額を床の鉄板につけるような形になる
出したままの尻は下から吹き上がってくる風に当てられ、ケツの穴はひりひりと乾いた
私は力が入らなくて、しばらくそのままになっていた
私は泣いた

今から一ヶ月ほど前の蒸し暑い日、戦地に行くつもりでたどり着いたのは簡素な訓練場であった
そこには、さまざまなまちからやって来たさまざまな年代の男たちが大勢いた
私は誰にも負けたくないと思っていた
小さく貧しい海のまちからやってきた私は、他のまちの人間に馬鹿にされるのではないかという恐怖感があった
その反面で誰よりも働きづくの暮らしをしてきた私が、そんな奴らに負ける訳がないとも思っていた
着いた日の午後から始まった訓練で、私は誰よりも大きい声をあげ、跳ね、走った
教官がこちらを見る度に、私はその姿を見せつけるように声を張った
日々は淡々と繰り返した
朝起きて炊事や掃除の当番をこなし、午前の訓練、飯、午後の訓練、飯、掃除、風呂、就寝
なんてことはない、ふるさとにいるよりもずっと楽であった
飯も豊かにあった
私はたらふく食べた
率先して鍋を洗う当番を引き受け、底にこびりついた米粒を水でふやかして剥がし、手に掬ってひと粒残らず食べた
米はここにあったのだ
だからふるさとには米がなかったのだ
腹を空かせている家族の姿がちらつくが、もうすぐなくなる命だから、どうか堪忍してほしいと思う

毎週金曜日の夜には、片付けの終わった食堂の隅で演芸会が開かれた
そこでひとつ芸を披露するのが下っ端の役割だった
私はふるさとの隣町で聞いた昔話をした
どうにも不思議で滑稽で残酷な話なのだが、それを面白おかしく語る店屋のじんつぁまが大好きで、私は買うものも買う金もないのによく通ったものだった
私はじんつぁまの語りを随分と誇張して、大きな身振り手振りで語った
みんなよく笑った、大いに笑った
じんつぁまが背中で見ていてくれる気がして、私は気が大きくなった
ほうれ見ろ、とふるさとの海が力強く唸る
その音が聞こえる

それから私はいい気になって、次の演芸会でどの語りを披露するかと考えることを日課とした
日中の訓練には慣れてしまって、てきぱきと身体を動かして声をあげながらも、頭の中では昔話を語る練習だってすることが出来た
じんつぁまの顔と声を思い出していると、何だって辛いとは感じなかった
ただ戦地にも行かずにこうして日々が過ぎていることは、なんだか申し訳ないような気持ちだった

幾度目かの水曜日だった
この日は炊事の当番だったから、私は朝からいかに他の人に感づかれずに、自分の茶碗に飯を多く盛るかと考えていた
そして演芸会に向けての練習がそろそろ仕上げに入る頃であった
朝飯を無事にたらふく食い、訓練場へ整列する
そこで、敗戦を知る

駅のホームには無数の男たちがひしめいていたが、ただ静かであった
彼らは下を向いままもそもそと動いていた
私は訓練場に残っていた食料を衣服の隙間のあらゆるところにしまい込んでいて、尻のポケットに入っていた赤茶けた握り飯を隠し隠し食べていた

高い音を立てながら、汽車が近づいてくる
私はふるさとに向かう汽車に乗る

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