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書評:『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ/斎藤真理子 訳

「天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考え続けた」 1970年代、韓国ソウル市〈楽園区 幸福洞〉のスラム街――期待できることが何もない土地で、必死にしがみついて生きる〈こびと〉の父さんと、僕たち家族。(「こびとが打ち上げた小さなボール」) がんと難病で立て続けに亡くなった両親の高額医療費のために家を売り、じりじりと転落していく家庭を何とか切り盛りする私。(「やいば」) 行きたくもない一流大学のために浪人させられ、人生に絶望し、父親の書斎に隠された拳銃を必死に探す僕。(「宇宙旅行」) 

▼この連作短編は、〈彼ら〉によって、蹴散らされた人々の物語だ。翻訳で読む限りの感想だが、無駄な文字が一文字もなく、シンプルであるがゆえに、印字された文字と余白から、地べたで這いつくばる人々の感情がにじみ出ている。このあまりにも美しくてあまりにも悲しい物語を、日本語で、完全な形で読めることは、とても幸福だ。……と、〈人々〉という言葉で客観的に言ってみたが、病気も自己責任という現実を突きつけられた「やいば」の私は、、、受験戦争の犠牲者である「宇宙旅行」の僕は、、、小説の中にしか存在しえない架空の人物だろうか

▼「みんなの心に愛情がなく、欲望しかないからです。ただの一人も他人のために涙を流さない。そんな人たちしか住んでいないのだから、この世界は死んでいるのも同然ですよ」 地獄からの唯一の脱出方法は、勉強する(さもなければ死ぬ)ことだが、小さい体の父さんに、僕たちを学校に行かせるだけの力はなかった。その上、都市再開発という〈彼ら〉の都合によって、住み慣れた地獄ですら、文字通り、ハンマーで打ち砕かれた。徹底的に収奪された「こびと」の僕たちを遠目に見ながら、3.11の傷も癒えぬまま東京五輪に突き進む2017年の日本に生きる僕たちの姿は、海の向こうにはどう映っているだろうか

▼「まず人間が先でしょう」 幸福洞を追われ、行き着いた工場地区でも、〈彼ら〉は不況という言葉を武器に、経済的な拷問で僕たちをいたぶる。今にも死にそうというわけではないが、劣悪な作業環境で、ぎりぎり存命できるだけの〈生存費〉を得るために、会社の機械が機嫌よくスムーズに働くための〈補助機械〉として働く。状況は悪くなる一方で、大多数の工員は、変化は起こりえないと認めてしまっている。と、かなりのディストピアだが、どこかで見聞きしたような話なのは気のせいか

▼そして、2017年に生きる僕たちが忘れてはいけないことがある――変化は起きた、という事実だ。数々の取りこぼしがあり、今後の課題も山積みだが、実際、変わったのだ。今の韓国は70年代の軍事政権ではないし、この間の大統領弾劾とそれに伴う選挙でも民衆が勝利した。日本でもつい数年前に政権交代があったのだ。僕たちは、こびとのように小さな存在かもしれないが、本を読むことをきっかけに、手を取ることで、変化を起こすことができると、歴史は証明している。