静寂。

両親と10日ぶりにあった。
10日前より元気な様子に喜んでくれていた。
買い物を一緒にした。

物心ついてから、
必要以上に欲しがる自分を意識していた。
わたしには足りない。
欠けている。
満ちていない。

その時々で表現が異なるが、
根っこの枯渇感や欠損感は同じ。

自分が欲しいもの以外のものをもらうと
注意を向けてくれたことに
うれしい気持ちはあるが
欲しいものでなかったことに
傷つくというめんどくささだ。

(書いていてもうんざりする)
この傷つきやすさや痛みに対しての
敏感さは生きづらさと直結している。

傷だらけの自分を愛せるわけない。
深い深いところにある、揺るぎない信念。

父と母と歩調をあわせてもらいながら
ゆっくりスーパーで買い物をする時間。

かけていた部分が埋まったわけでないのに
胸にあたたかくひたひたと感じるものがあった

デコボコの壺に
丁度いい温度のお湯がたまった

散歩コースの、いつもの、スーパーで。


くだしがちのお腹をさすりながら、
胸がもう十分にあたたまった、と感じた。


不思議な満たされ方だった。

家に送り届けてもらって、解散した後、
食事をして、ぼーっとすごした。
とあるYouTubeをみていて、
あぁ、そうか、内側からわきでてくる使命感って
こんな風なのか、と感じた。

外にあると思ってた。
そして、今日スーパーで感じたのも
外との共創物だった。

両親とスーパー、
わたしのお腹と胸

ひとりで引きこもっているだけでは
意識にあげてこれなかった感触。


そしてその多幸感は、
いつのまにか寝てしまっているうちに
体の冷えと共にふとどこかへいってしまった。

なくなった。
そうおもったら、お腹が空いていないのに
たくさん食べたくなった。
温かいお茶を何度も飲んで落ち着かせないといけなかった。


そして、また、あの多幸感についてかんがえる。

再現性を求めれば乾く。
ないものが浮き上がる。


求めず、待つ。
繰り返し。
その間にやることをやるのだ。

そう頭は理解していても。
胸が寂しいとわめく。
身体がむくみでいたむ。

なかなか凡人には難しいよ。





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