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日記が手紙になっていく

おはようございます!やや眠い。6:06。朝一番でバイトに向かって電車に乗る。家から最寄駅までの道のりは、10分ほど寝坊したのにも関わらずいつもより余裕をもって家を出ることができたからか、それは清々しいものだった。朝の11月を思わせる寒さも、家の中でしっかり拾い上げてなんなら少しドアの外に出て肌で感じてみたりして分厚めの白いジャケットを着てきたから、ういー、さみー、とかやっていることになんだか嬉しささえ込み上げた。今月初めての4時半起きだったので昨晩は少し緊張したが、そういえば気合を入れて21時台に寝ようとせずとも22時半前までに目を閉じていれば6時間は睡眠時間を確保できると気が付いてからは気が楽になった。目を閉じていれば寝ているようなもん、体がそういう普通に錯覚してくれる、という前向きな知識がどこから流れてきたかは忘れたが、彼の功績は大きい。僕は至るところでそれを心に浮かび上がらせては、昼休憩だったり寝る前の寝れない時間だったりに活かしている。いわゆるソースというものは曖昧で、これが僕の記憶が曖昧なのかそもそも情報の根拠として薄弱なのか定かではない、ただ僕の記憶が曖昧なのはたしかなので絶対的な信頼を置くには常に要素が足りないなかで彼にもたれかかっている状態だ。もはや信仰といっていいかもしれない。僕はこのことについて考えることをやめている。このままでうまくいっているし、現に体は楽だ。目を閉じてから明らかに1時間ほど眠れていないことに気がついても、とにかくまぶたを閉じることだけは途切れないように踏ん張っていると、なんやかんやで寝れる。そういう日の次の朝はやはり決まってめちゃくちゃ眠い気がしないでもないが、それはたまたまだと思っている。たまたま何かの噛み合わせが悪くて、例えば今僕の下顎の親知らず付近が腫れてしまっていて、歯を思うように噛み締められないがゆえに日々の滑舌にも影響が及んでいるように。そして滑舌はもともと大したものではない気がしないでもない。今は眠い。なんというか不健康な眠気であれば無視して書くのがよいと分かってきたのだが、これはきっと寝たら気持ちがいい。西船橋についたところだから、20分弱は時間が確保されている。すべてを費やすことになるとは思えないが、確保されていることが重要なのだ。本当は土壇場でトートバッグに入れたはずの1Q84の5巻を真っ先に読もうとしていた行きの時間だったが、先日の旅館でご自由にどうぞと言われて持って買ってきたデカい保冷バッグにおにぎり2つ入れて、せっかくだからデカめの保冷剤を詰めたらいつもよりトートバッグが重いしかさばることに慄いて、最後まで文庫本を入れようか迷う運びになってから、すでに運命の歯車はこちらの方向へ噛み合い始めていたのではあるまいか。なんで書いていたら少し眠気が飛んできてしまった。だんだん日が出てきて、車内と外の温度差がなくなってきたからだろうか、あの不思議なぼんやりとした温もりから、社内の雰囲気は変容してきている感覚がある。それでも一度眠いと思ってしまったからには寝たい。もうカレーのお腹になっている、ような感覚を割に大切にしている。この瞬間となっては意味を持たないが、いっとき他でもない自分がもった欲望を叶えてみて良いこと以外のことが起こるとは思えない、そんな安心からかとも思う。ひとまず目を閉じてみるとしよう。6:29。

結局バイト先の最寄駅まで寝てしまった。正確にはひとつまえで起きたが、特になにをするでもなく目を閉じていたので寝ていたようなものだ。寒い。明らかに家を出た直後のほうが気温は低かったはずなのだが、今こうして歩いている時間の方がよほど厳しい寒さに思える。電車に乗ってしまえば温かいどころか暑いだろうと予測していたからだろうか、つまりこの時間は有限であると、厳しい時間帯だがここ踏ん張りたいですねーと、地上波のサッカー実況でお決まりの文言を使った思考の道筋で、あるいは感覚にその言葉を当てはめていたのだろうか。昨日1Q84の4巻を読んでいるとき、温もりという言葉をすべてヌクモリティに言い換えて読んでいたが、特に何も妨げなかった。ヌクモリティ界隈の言葉ではシコリティが一番好きだ、バカすぎるからとか色々書きたいことはあったし、そもそも古賀ちかこさんのエッセイの話からはじめようとしたのだが一度も触れられなかった。あまり驚いてはいない。

ふしゅー。10:23。まさにふしゅー、という感じの深呼吸(吐)をしてから書き始めた。早めの休憩、8時間勤務の前半3時間ちょっとを終えて休憩に入っているから後ろがやや重たいが、朝イチシフトの最大の利点、16時退勤が待っているのでなんとかなるでしょう。18時前には寄り道をしなければ家につくはず。今月は寄り道をしようと思えるほどの資金はないのでまっすぐ帰るとは思うが、いま経済能力はない、と書こうとして手を止めたことに意味を見出してみる。というかそれは一目瞭然なのだ、お金の流れだけが経済ではない、むしろお金はその一部でしかない、坂口さんの言葉で一番胸に残っているといってもいいものだ。それにしても連日坂口さんの名前ばかり出しているから、もっと僕は手広く色々みているよという証明として毎日違う方の名前を出したい気持ちもあるのだが、まあその場その場で思いついたことを書くというやり方をしているとこうなる。千葉雅也、山下澄人、村上春樹、井上雄彦、古舘春一、FCバルセロナ、トークサバイバー2、ダイアンのユースケ、笑い飯西田、佐久間信行、秋山竜次、ザキヤマ。今すっと出てくる名前でいうとこんな感じだ。寺尾紗穂さんの歌はときに無性に聴きたくなる、歌というか声?まあ両方。鳥羽和久さんはXのおすすめで流れてくるポストが軒並み良いこと言うなあと思うので最近フォローして、やはり良いことを言っているが、ときにじゃあどうすればええねん!という子どもへの接し方を綴っていて、これをどうにかするにはもう彼の本を読むしかない。君は君の人生の主役になれ、をまずは外していくのが僕の流儀なので、とりあえず千葉市図書館のサイトで検索してみる。新しいものから順に、推しの文化論、君は君の人生の主役になれ、おやときどきこども、親子の手帖の4冊が所蔵されているようだ。推しの文化論はBTSに関する考察で、なんというかこういう哲学的な賢さを持っている人の中で、KPOP(の域からはちょっとズレるのかな、今のBTSだと)を好んで聴いている人を知らなかったので読んでみたい。でも今じゃない気もする。結局4冊をざーっとみて少し考えてみると、君は君の人生の主役になれを読んでみたくなってくる。とりあえず予約するか。今予約していた他の2冊が準備済みで、僕の受け取り待ちになっている状態だが、なんとかなるだろう。僕が一冊まるまる本を読み切れることはそうない、という形式ばった考え方をあえて採用すれば、時間が足りないから読みきれないということは起こり得ない。昨日飯を食べたあとに風呂に入るまで、いや違うな、風呂に入ってから洗濯ものを干すまでの40分くらいかな、読書に適した時間かもしれないなという気づきがあったので、これから毎日そのあたりで確保していけそうな気がする。帰りの電車も文章が書き終わってさえいれば抜群に読書との相性はいいのだが、図書館で借りた表紙が剥き出しの本を電車で読む勇気がどうも湧いてこず、そこでは(なぜかその理屈に反して読める)村上春樹の1Q84を読み進めることにしよう。もう5巻だ。これまでほとんど一冊の小説も読みきれなかった人間が、300ページの文庫本をあっさりというにはペースがゆるやかすぎるかもしれないが、すでにシリーズで4冊読み通している。大事件である。しかも間でコロナに罹ったときはあえて別の物語を読んでみたいということで、スプートニクの恋人を4日くらいかけて読んだ。読めるんだ、俺小説が。というのがまずもって浮かびあがった感想である。それは今でも変わらない。5巻を読み切っても、次の最終6巻を読み切ってもたぶん変わらない。彼の作品を全部網羅したころにはどうだろう。やってみたい。ノリで書いていると同じ名前しか登場しない、ならば僕のノリに適した、というかノリや雰囲気や言葉尻が大好きな彼らについてもっと研究する必要がある。いきなり手広くはできないというか、今の時点で充分に広いと仮定したほうが動きやすいのだろうか。このスペースの中で、気になるところをつついてみるのだ。小さい時僕は絵を描くのが好きだった、とくに漫画の絵、真似して書くのが好きだった時期もあるけど、次第に自分でキャラクターを作るようになっていった。物語は人に任せるのが好みだったのかもしれない、小学生の時ユーダイとコンビで描いた漫画では、バクマンの影響が強かったのだと思うが彼がネームを書いて僕が原稿を描いた。丸っこいキャラクターたちで、清書というよりネームを綺麗に描き直しただけという印象を受けたあの漫画、クラスで一番の美人だと僕が思っていた、字も綺麗で絵も上手で、言葉遣いも柔らかくて卒業文集の文章なんか今読んでもグッとくる、これはキモいと言われるので人に言った事はないが、未だにその作文のタイトルをそらでいうことができる。思いやりの心で。言えるか?小学生が。いや、小学生でないといえないことかもしれないが。とにかく上品で、話しているだけで幸せな気分になるようなあの子のことが僕は好きだったのだろうか、当時はそう思っていたけれど。当時かそうだったのならそうに決まっているか、何を言っているのか。まあいいや、その子が僕たちの漫画を読んですごいねえ、やっぱり君は絵が上手だねえ、と褒めてくれたのもこのさき40年は忘れることがないだろう。そんな記憶をたくさん持っていて、それは増える一方だ。なんでお前はそれを覚えているんだと言われても、面白かったんだから仕方がねえだろという他ない。そういう脳みその形をしているに違いない。その代わり、注意が散漫。に見えるだけだと僕は言い張るが、これは全部に対して気を張ってるから目の前のことが疎かになることもあるんだと言い張るが、自分で自信がなくなるような世の中に生きている。生きているだけでいいはずがない、そう思いつつも、なんとか生き延びていくことを考えようとも思う。でもやっぱり俺は、絵を描いて文章を書いて、人を笑わせるんだか俺を楽しませるんだから、そんなことはまだわからないが、練習するしかないんだよな、坂口さん。大丈夫ではないんだろうけど、今回は長いですね。熊本旅行の記憶が新しいとはいえ、あなたがTwitterにこんなに長いこといないのに、依然としてあなたの言葉についてばかり話すことになるとは思いませんでした。そのくらい鮮烈だったんでしょうね、これ俺のこと言ってんじゃん!と感じてしまう躁鬱大学の内容は。いまも僕のものを書く原動力になっています、なんであなたがあなたのことを書いているのに、それが僕の助けになって嬉しくてたまらないのか、それがわからないままでも面白い。そのままでいいわけじゃない、もっともっと勉強をしていかなきゃならないんだろうけど、まずはできる喜びを教えてくれたことに、本当に、心から感謝しています。ありがとう。

原色

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