見出し画像

俺の享楽年表つくる

おはようございます!今日は享楽年表書いてくぞ!

1999年 誕生
図鑑をよく読んでいたらしい。特に記憶に残っているのは宇宙と恐竜。なかでも火星と木星の重さを比べてみました、と天秤にのせて測ったような絵が好きだった。というか印象に残っている。
2003年 保育園入園
花見川区から今住んでいるところへ越してくる。以前通っていた保育所の記憶は全くない。ドラゴンクエスト8ごっこと、おままごとが楽しかった。お昼寝の時間があるのだが、眠れない子どもたちは叱られるわけではなく、そんな子たちのためにギターを弾いて、ハーモニカを吹いてくれる若い、今の僕と同じくらいだろうか、25歳くらいの先生がいた。先生だったのかもわからない、クロさんと呼ばれていた。
2004年 妹誕生
僕が5歳のとき。なぜか丸刈りだった。たしか家で母にやってもらった。なんで坊主にしたのか、僕の希望だったのかなんなのかわからない。あまり上手く刈れなくて若干まだらに仕上がったが、それでも嫌だった記憶はまったくない。そのまだら模様を「虎刈り」と言って笑っていたことも覚えている。妹の首が座っていない頃から普通の抱っこの仕方でゆさゆさ僕はあやしていて、でも怒られたりはしなかった。違う違うと笑って、両親は首の座らない赤ん坊の抱き方を教えてくれた。妹はとにかく可愛かった。彼女が生まれた年に僕が5歳だったことは坊主だったこととセットでハッキリ覚えていて、近くの保育園に入園したのはたしか年少クラスのときだから、何年か覚えていなかったがここから逆算した。
2007年 小学校入学
放課後は学童保育に通っていた。たくさん漫画があったし、年上の子ともなんとか上手くやっていたから、外で野球をして遊んでいた。当時の年齢と重なるからか、漫画MAJORのリトルリーグ編をなんども繰り返し読んでいて、試合終盤ボロボロになりながら投げ続ける本田吾郎、というかボロボロになって肩で息をしながら、腕を上げる体力もなくだらんと下げているあの構図がとてもカッコいいと思って、野球をやっているときはめちゃくちゃ疲れたことにしてよく真似していた。ひとつ上にリュウジくんというのちのヤンキーがいて、彼には手をとって漫画みたいにぐるぐるぶん回して投げられたことがあったが、仲良くやるためなのかわからない、ギリ楽しかった記憶として残っている。3年生で学童保育を卒業して、4年生からは放課後の世界が広がる。

とここまででちょっと疲れてきたので、いったん今日はサブの年表、脈絡なく自由に好きだったことを連想してみる。

ハイキュー‼︎
バイブル。僕はジャンプを読むのが好きなようでいて、これとバクマン。を読むのが好きだったようなところがある。ハイキューからは物語の「脚本以外の面白さ」を特に学びとった記憶がある。コマ割り、線の使い分け方(ここは作者古舘春一の前作「四ツ谷先輩の怪談」からきている)、ポエミーな台詞が心を揺さぶること=言葉遊びのやり方(←西尾維新原作のめだかボックスからも僕は相当影響を受けている、特に球磨川禊の言動全般、加えてセリフを『』で括るとまた違って見えること、示唆性(と呼ぼう)が付与されることの面白さも、ここを発端として感じ取るようになった)。あとはタイトルのつけ方。毎日の日記に欠かさず、なんなら一日複数つけたりもしているが、僕はタイトルをつけるのが好きだ。そして得意だとすら思っている。ハイキューの「終わりと始まり・2」のようにタイトルだけで心をかき立てるような、読む前からすでに面白くて仕方がないようなタイトルのあり方、あるいはめだかボックスの、その話における象徴的なひとことをそのままタイトルに使う手法(こちらは例がパッと思いつかないが)、この二つが主に僕が思う「かっこいいタイトル」の骨子になっていると考えられる。結局ハイキュー以外の話もたくさんしてしまった。漫画の話は疲れたが、僕は漫画という括りにはさほど興味がなく、だからというのか分からないが、たいしてアプリで毎週無料!みたいな漫画を全く読まない。たまたま出会った名作が漫画だった。だから漫画について語り疲れたな、と思おうが僕のコアについて語ろうとすれば避けては通れないとは思うが、まあいったん別の角度から掘ってみよう。

藤岡拓太郎の2コマ漫画
漫画やん、という感じだがちょっと違う。というか全然違う。高校時代から仲の良い、1年生のころにできたコミュニティのうちの一人、ノグチが教えてくれた。最初に読んだのは、とある蕎麦屋の夫婦。これ載せちゃっても大丈夫だよな。

Twitterで毎日のように新作をあげていた。高校時代、僕のユーモアはほぼすべてここから摂取していた。ギャグ漫画も一切読んでこなかったし(コロコロコミックででんぢゃらすじーさんとペンギンの問題は読んだ。ジャンプでいぬまるだしっも読んだ。ギャグマンガ日和とかそういう僕が思うにギャグ漫画好きはこれを読んでいる、というのを読んでないというだけかも)、迫真の表情で変なこという面白さを、僕は松本人志のコントからではなく、藤岡さんはお笑いにめちゃくちゃ明るいから間接的にここから摂取し、勉強したことになる。彼を形作ったもの100選、みたいなペーパーを高円寺で開かれた個展でもらって読んだり、彼が面白かったと言った芸人は字面だけで大学生の頃覚えていたが、天竺鼠、ロングコートダディ、かもめんたる、笑い飯あたりだったと思う。どれも今(流行りの波もモロに受けつつ)見事なほどに僕の好みに合致していて、改めて驚く。どれもってそんな言い方。

昼休憩、寒いが再開。手が冷え切る前に書ききれなくても戻る。で、なんだっけ。もうそりゃ4時間も空いたら忘れてまう。もう13:51だもんね。だが今日18時まで働けば明日は休み。その次一日働いて、また一日休み。ここでようやく体力を全回復までもっていける見込み。そこから月末に控える4連勤に備える。というか今日中に12月前半のシフト希望を提出しなきゃいけないんだった。彼女と会う予定、友人と泊まりがけで出かける予定、なんとなく考慮して日程を組んでいこう。それは帰ってからでいいかな。とりあえず今、12月前半どうしようか、と彼女に少しジャブを打っておこう。そうでもしないと僕が忘れてしまう。とりあえず友人との旅行は今スケジュールを組んでいる段階なので、決行されれば僕としてはありがたい1月になんとか調整すべく、1月の土日が予定で埋まってそうなムツミくんに裏工作を仕掛けにいった。もしかすると新幹線のチケットのキャンセル待ちみたいに、思わぬところが空いてくれるかもしれない。グループで聞いた方がいいのか個人で聞いた方がいいのかわからなかったが、個人チャットの方が細かく利害を擦り合わせることができそうなのでそちらを選んだ。うまくいくといいな。とりあえず今月のシフト希望のように、特に〇連勤以上が生まれないように工夫したりすることはせずに12月分も組もうと思っているから、もう少しギリギリまで催促せずに、相手がどうくるかうかがってみよう。よし、彼女にも連絡してと。こちらは電話で決めちゃうのが1番手っ取り早いし、お互い声も聞けるしでいいだろうということで、そちらのお誘いもしておいた。

さて、25分くらいまでに戻ればいいとしてあと15分弱。確か今日は千葉雅也さんの勉強の哲学を受けて、僕の享楽(欲望、そのコアにせまる)年表を書いていたのでした。藤岡拓太郎のところまでいったんだよね、高校はまあそんな感じでした。といいつつまだ重要な要素を言い残していて、何かといえばTwitter。こいつが僕に、僕は「面白い」を追っかける人間なんだと錯覚だろうがなんだろうが、強く思わせてくれた存在。思い返せば小学校のころから、卒業文集なんかは誰に言われるわけでもなくウケを狙って書いていた。面白いのが、多分当時僕はそういうキャラでもないのである。目の前にある公立中学校にそのまま上がって、近くの小学校ひとつと合わさるだけなので身の回りの雰囲気は特に変わらず、いや結構変わったかな、向こうの小学校のクソガキとばかり仲良くしていた気もする。ただ、周りから見た時の僕の立ち位置はさして変化がなかったんじゃないかと思う。ひとつ明確に言葉にされたことがあるのは、「真面目な顔で変なこと言う人」。そう評されていたのをしったのはずっとあとで、大学生になってからだった。僕としてはそれなりに表情豊かに楽しんでいたつもりだったのだが。ここで、自ら面白いことを生み出す(たまたま生まれた)というときの僕は、基本的に意図してそれをしていたのではなかったのではないかという仮説が立つ。つまり中学生のころまで本意ではないところで面白がられていた、しかし不思議と面白の因子を持っていたらしい僕が、己の手でそのタイミングをコントロールしようとし、もっと言えば自らの望んだタイミングで笑いが発生することそれ自体の喜びを知ったのが高校生のとき、ということになるだろうか。そしてトリガーとなったのがTwitter。ここでも僕は、いわゆる「ネタツイ」、大喜利のような形、流行りのテンプレートなどを用いて、自らの個性との組み合わせ、掛け合わせでもって松本人志に言わせるところの「裏切り」を生み出し、スマートな文量で笑いをとる。そうした形式を用いるわけではなかった。というかそんなやり方は一切頭になかった。僕がやっていたのは「身内ネタ」だ。うまいこと多くの同級生が面白いと思えそうな要素を覚えておいて、容れ物だけ珍しいところから取ってくる。たいていは中学生のころ摂取した2チャンネルのネタをベースにしていた気がする。ここまで書いていて、そういえばこれも書きたかったんだと思い出したのが、徐々に思うように人を笑わせることが、少なくとも飲みの現場だとか直接絶え間なく喋り合える空間以外で難しくなっていったのは、僕が僕を面白い「人間」だと思ってしまったからではないか、という見方だ。面白かったのは、鮮烈だったのは「やり方」だった。「ネタを扱うスピード」だった。

ささ、帰り道まで来ちゃいました19時ちょうど。次は稲毛。特に書きたいことがあるわけでもないが、なんか締まった感じがしなかったので続きをちょっとでも書くことは決まっていた、文量としては再開する前の段階で足りていたのだが。そういう人間だ、と、人生をそれを塗り固めていくだけの道筋だとしてしまうのはなんか窮屈というか、例えば大学生の頃僕はなんでもかんでもルーズ、約束の時間を守らない、と書いてみて思ったが僕がルーズだったのはそのくらいだったかもしれない。一時的に友人に金を借りたときは、数日後の給料日に返せることが決まっている時だけだった。とはいえルーズといえばルーズ。少なくとも収支を今ほど管理できてはいない。なんなら収支がマイナスに傾くことをいかしているとさえ思っていた。この頃はもう、面白いには向かっていなかった。何に向かっているかといえば、それっぽい、であった。大学生っぽいことがしたかった、それでも僕は憧れの裏返しなのか、青春というものに対する嫌悪が凄くて、それは今でもそうだ。ただ文字を打つ手の動きとしてやっているから今はこう言えるが、これを声に出して言えと言われたらゲロが出る方が先だろう。青春はクソだ。なんやそれおもんない。なんやねんそれ、今しかできないことなんてないねん。ダッサ。おもんないのとダサいのを許容し始めたらいよいよ死んでるのと変わらんだろ。とかなんとか、もういいのだが、思ってんだか思ってないんだか分からんし。パフォーマンスとして書いているのが少しでもわかったら、ここでは一度トピックを切断すべきである。

不思議なことだが、とこの頃毎日言っているような気がするが、享楽年表を作る途中、しっかり腰を据えて書くことに飽きて自由連想に近い形で、それもバイトの休憩やら、帰りの電車やら非常にまばらなタイミングで、その時書きたいことを一応形だけ連ねて書いていたら、なぜか中学生、高校生、大学生の頃の僕に触れることができた。大学の頃に関しては語りたいこともまだ山ほどあるようで、僕がもっとも僕の思う面白さを考えない時期でもあったから、コアに迫るという点では書くことは特にないのかもしれない。こちらはもしかしたら立ち上がりにやっていたように、きっかり時系列の出来事ベースで、字面をどんどんボーリングしていくように無意識を探っていくのがいいのかもしれない。うん、まあこんなもんだろ。千葉駅から電車が出発するまであと10分あるが、昨日からまた1Q84を持ち歩き始めた。パート3の後篇、つまり文庫版の第5巻の、ちょうど折り返しあたりを読んでいる。次が最終巻だ。高校の友人とも最近、日記の交換を始めた。あれもこれも不思議なのだが、高校時代に所属していたバスケ部でも、伝統行事だったかなんだったか、ブログサイトみたいなものを立ち上げて、全員で日記を回していく習わしがあった。一応立ち上げるためのノウハウを教わった記憶があるから、たぶん伝統行事で合っている。それをこの度復活させようという、どこかで聞いたような売り文句でまたラインのグループノートを使った交換日記が始まった。昨日はようやく二巡目の僕のターンが回ってきたので、以前ひとりが募集していたイッキ見におすすめの作品を放流した。もう放流といったほうがいいくらい、夜遅くに書いたのもあるが、勝手に湧いて出てきて、気がついたら画面の上に文字として居た。あるいは文字にも見えるし、そうなってなお文字ではなかった。いつも通り推敲はなく、その場での訂正、滞りを減らすための微調整のみ行なってあとはそのまんまの提出だったので、僕にとって二次的なものがなかなか介入しづらいおすすめリストだったのではないかと思う。それがいいことなのか悪いことなのか、一貫していいことと信じていた考え方は近頃ガラガラ剥がれていって、土壌に混じって見えなくなったがまたそのうち現れる。僕はそのときを待たずに、とにかく流れ続ける。文句も悪口も褒め言葉もアドバイスも反省も、全部置いていく。言うことは聞かない。そうはいっても耳に入ってくるものはある。それだけでいいというか、そうなる。藤岡拓太郎の2コマ漫画に、小学生がすでに登っている登り棒の下からおっさんが登ってきて、当然怯えるその子に対しておっさんは「こういうことが起こる」と言う。まがまがしい絵柄も相まって何度見ても笑ってしまう。こういうことが起こる。まさにそうだと言おうとして、別にそれは何の関係もない、関係があると思って言い出したはいいが、やっぱ違うなとなるときも多い。坂口恭平は、心学校で受けた質問に対して、おれ質問に答えるってのはできないから、その話を受けて浮かんだインスピレーションで話すね。だったかそれをもとに話すね、という言い方だったか忘れてしまったが、これを聞いた時の僕の興味は言っていることそのものに向いていたのだろう。というか、字面はどうでも良く彼の考え方のエッセンス、文章ではなくテクストに心惹かれた記憶の具体的な輪郭として、僕は今この文章を覚えているのだろう。なるほどと思った。そうか、そりゃそうだよなとも偉そうだが思った。それでいいんだよな、と。だってそうでしょう、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?