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つまらなくてもあかんのか?

こんにちは!17:29!もちろん迷いました、あいさつにはね。30分を回っていなかったのが大きかったでしょうか、いいえ、29分なのがデカかったです。9ってやっぱり「ギリギリ間に合った」を増長してくれますから。ギリギリ間に合った〜!と、せっかくだから、と。まんまとしてやられたわけですよ我々は。悔しくないんですか?悔しくないんです。よかったー適当こいといて。

さて、今日はバイトのようなモノの帰りです。電車、快速、座ってる。ばあちゃんの隣。さっき目の前の方が咳をしていたから、マスクをつけた。すまん!と思ったが、最近はこうすることにしている。一回俺はそんなもんに左右されないぜ!いくらでもこい!どこにもいかないからよ!したらコロナにかかったからです。トラウマってやつですかね。まあそれもありますが、とにかくマスクつけてた方が楽なんでそうしてます。密集の中ではマスクつけてたほうが苦しくない。これがコロナ禍によって形作られた、後追いの、人工的な、魅力的ではない感覚だとしても、今のぼくはそうしたいんだから仕方ない。はあ、。本当はね、今のだってはあ、で止めたかったんですよ。でもぼくは「、」で止めるのがどうしようもなく鼻につくんですよ。多分中学生のときこいつは本当に自然に鼻につくことをやっていて魅力的だなと思っていたやつが一定期間その書き方にハマっていた記憶が、主体を離れて鼻につくその感覚だけ僕の身体を時間と一緒に透過せずに、ポイは破れたけど鱗だけ残った金魚すくいの激レア回みたいに、もうそれは僕の皮膚と見分けがつかないくらい馴染んじゃってます。ぼくと、彼の間でしか起こらなかったはずの感情?判定?みたいなものが、その一片だけ居座って、ぼくはそれを今悪いものをはかるために使っている歪さ。でも今だからこそ、そして文章の中だからこそ、悪くはいうまいと「あのときは鼻につくことを、あいつに向けては褒めるみたいに感じていた」と言いたい。言いたいけど、そうではないから言えない。鼻につくところは絶対的に(あえて強い言葉を使ってみよう)嫌だった。嫌だったが、まあトータルで仲良くやれていたから、そこもご愛嬌みたいになっていただけか。「鼻につく」の野郎も、お前の顔に免じてまあ、付き合っといてやるか、みたいな。付き合ってやっといてやるか、だとちょっとあれだが。まあそこはあんまり今描きたいところではないから適当である。書きたくないから書かないだけであって、細かなことだから書かないわけではない。細かなことも書く。でも書きたいわけではやっぱりない。好きなことでも細かく書くのはめんどくさい、場合が多い気がする。想像してみたが、めんどくさい場合しかなかった。書かずにはいられないから書いている。でもその間、つまらないわけではない。むしろつまりを解消するためにやっている。間違えた。今のは言葉遊びがしたかっただけだ。つまっているから書いている。解消はしない。うーん。よく分からなくなってきた。あながち言葉遊びがしたいだけという訳でもないんだけど。
山下澄人は、「変」こそ人間の武器であり、そうでなくては面白くない。生まれてしまったからにはつまらせたい。みたいなことを言っていた。坂口恭平は流れてないといかんよと言った。僕はこの間で格好つけて論理の矛盾(だと感じたしこり)に思い悩んでいたわけだが、まあ格好つけるのは仕方ないとして。別に二つが同時に成り立たないわけではないと、書いてみて思った。流れるように、また持っている何かを流れの中に投げ入れ続けるように生きる意識は、ネイティブ窮屈な僕(たち?)の中では極めて稀薄なものである。だから、言葉にしている。「流れないと」と。これはメッセージだから、一度断定しなきゃいけない。だから強い言葉を使っているんだ。凝り固まったその自覚も当たり前にない、蝋燭が主人公の絵本みたいな僕(たち)を、跡形もなく溶かすために。そのためには「ま、場合によるけどねー」なんて悠長なことは言ってられない。なんせネイティブ窮屈はギリギリの、いつ死んでもおかしくないヤバい状態だからだ。一刻を争う。そういうときは強い言葉しか意味をもたない。それに今気づいた。というか僕に馴染むよう解釈したらそうなった。
で、いざ爆炎をぶつけられて、ゆーったり再形成する時期には、詰まりに向き合う必要がある。というより、詰まりは起きるから、対処の仕方をつかんどかないとしんどい。でも死なない。一度ぶっ壊れたおかげだ。ぶっ壊れたのに死ななくて、あれ死なないじゃん案外、俺しぶといじゃん、めんどくさいけどなんか嬉しいじゃん、ってなれたら死なない。これはなんでもかんでも生まれつき備わっていて、自分で掴んだものなんて何一つないと言えそうなネイティブ窮屈人にとって、半端じゃないくらい心強いモノである。ほっとんど、9.9割やってもらったようなもんだが、ぶっ壊してもらって、また形になる方法を教えてもらって。でもまた形になるためには、ここまで生きてきた、どこまでも個人的な情報をもとにやっていくしかない。それが「僕が好きなことをやる、続ける」ということだからだ。そして詰まる。あれ、これは違うな、だったり、俺はこれだと思ってんだけどな、これやれたらカッコいいんだけどな、だったり。詰まるのは苦しい。でも流れればいい。苦しさから逃れるためには、とにかく流れることだ。でも全部が全部流れているなんてことは起こり得ない。少なくともきっと、僕(たち)が生きている間には。それが、それがなんだろうな、人間として生きる?個人として生きる?まあそんなことで括れたらきれいだけど、やめとこう。できない気がする。僕と僕じゃない人と、電車と、音と、鞄と数学のテストとその宿題が、ある限りは。それらがあるから、どこかで詰まる。「詰まってないように感じよう!」という方法もある。今あるものを、全部当然避けられないものとすればいい。そうしたら、詰まっている感覚から逃げることはできる。でもそれじゃあ。それじゃあ面白くない。どん詰まりじゃ駄目だ。

途中だけど、電車から降りちゃったので今日はこのへんにします。新しい筆ペンを買いに行きます。あと手持ちのコーヒーカップをフードコートに捨てたい。今はそれしか考えられないんです!
これとは別に、手書きでなんか書くと思います。それでは!

2023年6月28日 あってニッコリ筆之助


今日は二本立てだす!

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