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 中学生時代、私のあだ名は「カネゴン」だった。「カネゴン」とはテレビの特撮番組に登場するカネを食べて生きているという不思議な怪獣の名前だ。怪獣とは言っても人には無害な生き物だ。無害どころか、ただお金が好きなだけで、その行動や仕草は滑稽で人間を幸せにするような道化師の様な怪獣だったように覚えている。
 そのあだ名の由来は、私がクラスで会計係をやっていたからだった。当時、決して数学の成績が良い訳でもないのに、抽選みたいなもので無理やりやらされていたのだった。私は本が好きだったので、図書委員をやりたかったのにもかかわらず。
 嫌な仕事をやらされて、かつそういう滑稽なあだ名を付けられてたいへんに不満であった。
 自分の小遣いの管理もしてないのに、クラスの会計の管理をするという滑稽さに、そのあだ名は合っているような気もしていた。
 数学も苦手だったので、高校、大学は文系に行った。数学なんてほとんど勉強しなかった。
 しかし、就職する段になると、当時就職氷河期に入ってしまい、自分で会社や職種を選べない状況であった。
 とりあえず、どこかに就職できれば御の字であった。そして、就職が決まったのは、税務会計の会社。簿記も会計も知らないのに、そんな会社の勤務が務まるのかと不安でもあったし、実際就職後3年ぐらいは、仕事に慣れるのに簿記の学校に通ったり、自己研鑽したりして、たいへん苦労した。
 そして、「いやだいやだ」「向いてない」と言いつつ、現在勤続二十四年目。なんとかやっている。数年前には税理士資格も取得した。
 しかし、中学生の頃と同様に、人のカネの計算はできても、いまだに自分の小遣いの管理はどう努力してもできない。まるで中学生の頃に付けられていたあだ名の「カネゴン」同という怪獣の様に、行動が滑稽である。
 自分が望まなくかつ苦手な仕事を続けることは正直しんどい。
 しかし、これが中学校のあだ名から続く「縁」なのかと思えば何故か合点が行くような気がする。
 もう五十歳前にして、この会計の仕事に対する「縁」に抗う気は失せてしまった。
 「縁」とは自分ではどうしようもない要素もあるようだ。
 しかし、私が「縁」に抗えなかった悔いがあるからか、自分の子どもたちには、やりたいこと、希望の仕事に就いて欲しいという思いがある。
 先日中学三年生の長女から報告があった「学校の生徒会の会計長になった。頑張るわ」その顔は仕事を任された責任感に満ちていた。
 「縁」とは、遺伝するものなのだろうか。

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