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叢雲伝 〜承1〜

 行き交う人々の好奇心を刺激する異国の香辛料の匂い。聴きなれない言葉や唄が聴こえる。何故かどこか懐かしい旋律。米の粉であろうか。蒸されている異国の食べ物に私の心は揺らいだ。そんな折に雑踏より私を呼び止める声があった。
「そちらのモノノフの方よ。こちらへ来られよ。強飯こわめしを摂られよ。」
 白髪の老婆の勧めるがまま、私は飯を食べた。異国の言葉の食物であったが味は深みがありひとつ、ふたつと食は進んだ。
「そなたは変わっている。わしは人を見ればその者のかつての行いが見える巫女かんなぎ。今まで多くの人を見てきたが、お主は何者だ。過去が見えぬぞ。」
 私は黙って飯を食べ続けた。
「まあ良い。わしがその内見抜いてやろうぞ。さればお主はこのむらの警備につく武人となられよ。」

 私に過去の記憶はない。知らぬ間に異国の地での闘いに駆り出され、やがて大敗を期し、祖国であろう国へ還ってきた流れ者。もしかすると私を見抜いてくれるのかという淡い期待もあり、老婆の勧めるがまま私は暫くの間この地に居着くことにした。

 私は戦の地で確かに闘いに参加していたのであるが、誰ひとりして人を殺めてはいない。周りの者も誰ひとり、手柄という手柄を立てたという様子はなかった。ただ船に乗り敵地を巡る戦い。初めての土地で誰にも土地勘は無い。戦況などの情報は皆無と言ってよく、この戦が負けに終わることを帰国の数日前に聞いたのが、最初の報告であった。
 海を渡る間も何か上の空で、ただ果てしない波の音、風の音、鳥の声を聴いていた。
 故郷であるはずの土地に辿り着いた時の安堵と、得も言われぬ匂い。その日の夜の眠りの深さは私のすり減った心を修復するには十分であった。

 言葉を交わしたのは、何日ぶりであったであろうか。白髪の老婆には何処か懐かしさも感じられた。ただ夜露を凌ぐ家と頼りにされる喜びが与えられる。この喜びのために今私は、生を繋いでいることが身に沁みて分かる。何か人々のために役に立つことがどれ程自分の救いになるかは、この戦が骨身に教えてくれた啓示であった。

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