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叢雲伝 〜承2〜

 この地に入りてから、幾許いくばくか季節は巡った。民の生活は滞りなく、少しずつ人々の数は増えてきているように感じられた。
 少しばかり、私には自由が与えられ私はひとり野辺を彷徨った。何も目的を持たずひたすら彷徨っていた。自ら深く呼吸をする。そしてひたすら彷徨い歩く。帰る家はある。私は必要とされて邨の警備に就いている。
 近江の海は南岸から流れ出ていずれは大海に注がれていく…
 私は川の流れの行き着く先を見届けたいという衝動に駆られた。そして何かに取り憑かれたようにひたすら川を下る舟に身を任せていた。
 私を取り留めるものはもう何もない。けれどはじめから、何か私を縛るものがあったのかというとそうではない。何かに出逢うまでひたすらに歩き、野辺を彷徨い歩くというのが私の生きるための原動力となっていた。何かに出逢うというのが目的かどうかさえ見失っている。けれどもひたすら歩くことが、私を唯一救ってくれるごうであると実感している。
 音もない、静かな風景がひたすらに続くよしの原。白く光る太陽を背に南に向かっている。太陽を目に例えると、どんな雲も龍の化身となる。舟を降りた後も数日、南を目指し歩いていた。

〜斑鳩に入りし黄昏彼のために
たやすく呼ぶな我の名前を〜

 しばらくして私は少し開けた、少し栄えた場所へとたどり着いた。遠くから人の影が寄ってくるのが見えた。
 「そのつるぎは何処のものか?」
 私は何者かに呼び止められた。
「剣?」
 私は剣など持ってはいない。この者は何物なのか?盗賊の類いではないことはその者の身なりから分かるのだが、私を揶揄からかっているようはみえない。
「これは失礼いたした。私の見間違いであった。そなたは何処の者か?何処より来られた?」
「私は近江より来ました。こちらは何というか都でしょう?」
「ここは斑鳩。飛鳥の地。そなたはここで何をしている?」
「歩いております。歩くことで救いを求めております。」
「求道か…。よい。しばらくこの地に留まれよ。」
 私はこの地に至るまで深く眠ることは無かったのであるが、ようやく夜露を凌げる場所で眠ることができる実感を得た。馬小屋の屋根の下で私は星空を見ながら、深い眠りについた。星空を見たのは何日ぶりであっただろうか。今まで星など気にした事も無かった私であるが、この時感じた感覚は生涯忘れられぬものとなった。真新しい干し草なのであろうか。私は今まで感じたことのない安らぎと温もりに包まれている。
 大陸よりこの地に戻ってから、恐怖という気持ちを感じなかった夜はこの時が初めてであった。

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