十年

「ピンポンさんってフォークシンガーって自分で名乗るんですね」
この間、たまたま場に居合わせた青年に何気なくされた質問に、すぐに答えることができなかった。

古いVHSのきめの粗い映像の中で友部正人さんが歌っている。
間延びしたテープ特有のノイズに加え、ただでさえしゃがれたその声の、それでいてとても力強い佇まいに僕は目を奪われる。
友部さんの歌を聴くのは二度目だ。
一度目は家の中をラジカセを持って歩き回り、最大限までアンテナを伸ばすことによってなんとか捉えたAMラジオの微弱な電波の中で。中央線。阿佐ヶ谷駅。しんせい一箱分の一日を指でひねってゴミ箱の中。途切れ途切れに聴こえる「一本道」に心をごっそりと持っていかれた。十四歳だった。
歌を作ってみたい。誰かみたいで、誰のものでもない。悩みとも呼べないような、ちょっとした苦しみを。さえない日々にたまに差しこむ光とか。

講義の暇つぶしに、ノートの端っこに歌詞を書いた。
大学から急いでアパートに帰って、それに曲をつけて六畳間の壁にもたれながら小さい声で歌った。小さい文字に小さなメロディ。決して誰にも聴かせることのない歌。
ノスタルジーを、センチメンタルを、メランコリーを、あげ連ねていけば、きりがない。自分はそんなものを、いくらでもあげ連ねてしまう。

いまを歌うということは、決して過去を振り返ってはいけないということではない。振り返り、思い出してばかりいながら、現在を踏みしめる。よたついてもなんとか踏みとどまる。
過去が押し寄せてきても、まだ見ぬ未来の輝きに目がくらんでも、戦うのはいつだっていまここにいる自分にしかできない。
ずっと自分なりのフォークを追求してきた。いつも口を結んでノートに向かい合ってきた。五分でできた歌も、一年かけた歌も等しくステージの上にのせる。自分の中で、それらは黄金の音楽になる。
社会的なメッセージを発信する手段として登場したフォークは、いつしか生活の細部を描くことに用いられることも増えた。日本には自分の身の回りのことを徹底的に描く私小説というジャンルもあって、それはときにみみっちいとか、スケールが小さいと揶揄されることがある。四畳半フォークというものもそうだ。しかし自分はフォークにもっと可能性を見てみたい。

萩原朔太郎が山村暮鳥の詩集にあててこんなことを書いていた。

「この詩集を読む人は彼を心の強い詩人とはいわないだろう。なぜならそれは強い心を得ようと願う弱い心の祈祷だからである」

イメージやスタイルとして確立された、レッテル張りをされたフォークではなく、新しいフォーク、いまここにあるまだ名前のついていない感情や情景を描く音楽、決して強いわけではない人間がそれでもそこに堂々とあろうとする佇まいの美しさ。年齢を重ねて、未来の可能性がくすみ始め、益々、過去がまばゆく光り始めても、自分の目指す音楽は変わらない。

十年前、高円寺のいまはもうない飲み屋の二階。
急逝したフォークシンガーの歌をその場にいる全員で合唱した夜。交互に彼の歌を彼と馴染みの歌手たちが歌い継いでいく。

「あんなにすごいフォークシンガーが、あんなにすごいまま死んじゃったのに、お前はフォークシンガーを名乗れるのか」

投げかけられた言葉に心が燃え滾っていたことだけを覚えている。
その日から、自分はフォークシンガーにこだわることを決めた。フォークシンガーと名乗ることを決めた。

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