星空

 五月の空は爽やかで草木の色が青によく映える。
 大学を卒業し内定をもらった普通より少しばかり良い一般企業に就職した俺は正社員として毎日仕事に明け暮れていた。社会人というものはこんなにも大変で試練の連続なんだと痛感した。覚えることばかりの慣れない仕事に厳しい上司、優しくも対等に接してくれる先輩、いまだ打ち解けていない同僚......。そして、顧客への気遣いもろもろ。神経を張り詰める時間が長すぎる。忙しいとは言っても少しは息抜きできると思っていた。だが、そんな時間はない。すべて資料作成や明日の準備に消されて何も残らない。缶コーヒー一杯がどれだけ幸せなことか、やっと父親の気持ちが分かった気がする。そりゃ、こんなに時間潰されてたら家に帰ってテレビ見てたいよな。背もたれに寄りかかっていたいよな。俺も仕事が終われば、すぐ脱力してソファに飛び込む。疲れはたまる一方だ。しかし、大学卒業後の三月に夕子から彼女の連絡先をもらったことで、暇になれな彼女にメールでも電話でもできることがうれしくてたまらなくて、それを原動力に仕事に向き合えた。すると、そうしているうちに徐々に職場の先輩から褒められることが増えてきて、気も回せるようになった。すべて彼女のおかげだと小さく感謝した。
 正社員としての就職に伴い、職場の近くの一部屋に引っ越した俺は大学四年生の後半から一人暮らしをしていたので、それなりに経験や知恵があり、特に困ったことはなく生活をしていた。一日の仕事を終えて、家であるアパートに帰宅し夕飯を軽く済ませた。時間があるし彼女にメールでも送ろうかと思うが、なんせずっと想像の中で想い続けた人に実際連絡できるなんて信じられないし、緊張して仕方がないから一文字も打つことがなく、弱気な自分に溜息を吐いた。
 何やってんだよ、俺。せっかく夕子から連絡先もらったのに......。
 あの時、絶対に会いに行くって決めたのに、まだぐずぐずしてんのかよ。
 これじゃあ、連絡できてもできなくても、変わらないだろ......。
 自分に説教して何分経っても足踏みして、結局スマホの電源を落とした。情けなく、弱々しいのは社会人となっても捨てられていなかった。
 寛次郎と夕子と三人でカフェで話をして彼女の連絡先をもらったあの日、ついでに夕子とも連絡先を交換していた。その夕子から一通のメールが届いた。
『こんばんわ。今は家かな? 遅くなったけど、連絡先交換してくれてありがとう! これからよろしくね』
 初めての俺宛てのメールに夕子は挨拶を添えて送ってくれた。
『あんまり返せないかもしれないけど、よろしく』
そのメールをもらってから火をまたいで時々夕子をメールでたわいのない世間話をするようになった。たいていは職場についての話だ。夕子はアパレルショップのデザイナーとしてファッションブランドを持つ企業に就職。自身の夢を叶えたが、夕子も社会人として仕事をしていくことにやりがいを感じつつ、苦労しているようだ。お互い、大変だなというのがお決まりだった。だって大学卒業してから数か月しか立ってないんだぞ。十分準備して着たとはいえ、予想外の出来事ばかりだ。何度も肝を冷やしていることか。サラリーマンでも大変なのにデザイナーとかもっと大変そうだ。身が持たなくないか? そう伝えると、あははと言われる。
『どこ行っても、結局同じだよ』
 そうかと簡単に納得した。想像のしすぎで、どの仕事も大して変わらないか。
 夕子とメールを取り合うこと一か月が過ぎ、最近も近所で起こる出来事の話題で盛り上がる。
『なんか最近多いんだよなー。なんなんだろうな、あれ』
『そっかー。そんなこともあるんだね。そこら辺ならあの子も知っていたりするかもね』
『知っているかもって、どういうこと?』
『隣の市に住んでるから。そっちに行ってたりして詳しいかもなーと』
『え、俺の住んでるところの隣の市に住んでんの?』
『そうだよ。三回しか言ってないけど、すごくあの子らしい部屋だよ。可愛くて綺麗』
 その情報を知った俺は驚いた。あんなに会いたいとながっていた彼女が隣の市に住んでいるなんて思いもしなかった。まさか、隣だとは思わなかった......。もしかしたら、彼女の家を見かけたりとかしていたのかもしれない。ときどき買い物しに行くから。隣の市に住んでいると思うとふわふわするな......。驚きと喜びが混じってよくわからない感情になった。これはチャンスだ!家が近いと偶然会えるかのせいは高い。どこら辺に住んでいるのか具体的に聞きたいけど、さすがに気味悪がられるし無理だが......。
 彼女の近くに住んでいるのは嬉しい。変に気分が上がって、俺は彼女との出会いの実現に意気込みを入れた。
 夕子に『教えてくれてありがとうな』と歓喜を隠した感謝を送り、夕子とのメールのやり取りをなるべく続けようと思った。メール上で話していて面白いし、夕子は優しくて男でも話しやすい性格だから思ったより気楽でいい。ここまで自然でいられる女子は珍しい。夕子が彼女の親友で本問いによかった。夕子の存在に自信が付き、いつか休みが取れたら勇気を出して連絡をして彼女に会う約束をしようと決めた。彼女に会えるかもしれない可能性が俺の始まったばかりの社会人生活を柔らかく照らしている。

 それから三週間後。今日の五日後に休みが取れ、勇気を出して彼女にメールをした。
『初めまして。夕子さんから連絡先をもらった話は聞いていますか? その相手が俺です。突然で驚いていると思いますが、これからよろしくお願いします』
 まずはあいさつのメールだ。急に会いたいですは不振がられるだろうから心の距離を縮めてからいうことにした。このメールを送るのに変なところはないだろうか、市つれないことはないだろうか、こんなよくある言葉でいいのか、と悩みつくして三十分は使った。彼女からメールが返ってきたとして、すぐ返せるのか心配だが受け取られる印象が少しでも良くしたい気持ちを断ち切れない。
 数分後、メールが返ってきた。
『初めまして。話は夕子から聞いています。寛次郎君のお友達なんですね。こちらこそ、よろしくお願いします』
彼女との一回のメールのやり取りをおえても心臓の音は静かにならず、スマホを握りしめる。その後、俺は自分の職業や趣味、大学の時の話など彼女に警戒心を持たせないように自己紹介のようなことを本文に打っていく。そのメールを送ると、彼女も同じように自己紹介をしてくれて、やっと彼女とメールをしていると実感がわいてきた。寛次郎や夕子から知ったことばかりだったが、彼女地震から俺に伝えてくれるのだと思うと口元がにやけてしまう。変なことは考えていない。ただ彼女とメールでも直接かかわれていることがとても強く喜びを感じるんだ。
二、三度やり取りをしてもう遅い時間帯になったので、翌日にまたメールを彼女に送った。挨拶を済ませて軽く自己紹介したし、本題に移る。
『顔を合わせないままメールするのもあれですし、よろしければ四日後に会いませんか?』
『そうですね。ぜひお会いしたいです。多分、その日は空いているので大丈夫です。十一時に虎の公園前でどうですか?』
 思わぬ返信に心が躍る。確かに誘ったのは俺だけど、すぐにオーケーもらえるなんて思ってなくて。しかも、昨日の話した内容を覚えてくれて、二人とも知っている公園を待ち合わせ場所指定してくれた。やはり彼女は優しい。文面では堅苦しい印象だが、それも俺への気づかいだ。丁寧にメールを返信してくれていることは十分伝わってくる。礼儀正しいんだ。
『分かりました。それで大丈夫です。お会いするのを楽しみにしています』
『予定があってよかったです。この間会った夕子さんからお話を聞いているので、お会いするのをとてもわくわくして待ってます』
彼女炉と会う約束をして、人生で一番幸せだった。恋心に気づいたあの時から彼女を探し求めて、わからなくて、見つからなくて、あと一歩届かなくて。思えば、ずいぶん月日が経っていた。一回も顔を見たこともないのにものすごく惹かれて、最初は頭でもおかしくなったかと身を案じたこともあったが、間違ってなかったと思う。それほどの魅力を持った人なんだ、彼女は。顔なんか会わせなくても人柄の良さがあふれ出ていて、きらめいて、誰かに魔装をかける不思議な人。彼女は俺に魔法をかけたんだろうな。
 少し乙女のようなファンタジーな理由自分の恋に名付けて、彼女に会う日を想像する。想像して、彼女に会うための服装や身だしなみを確認して当日に向けて準備を始めた。
 ついに彼女に会う二日前、彼女からメールが届く。
 彼女はは礼儀正しいから『明日はよろしくお願いします』等のメールだろうと開く。
『すみません。昨日会社からメールが来まして、海外への出張が決まりました。ですので、今回はお断りさせていただくことになりました。お会いする約束をしていたのに申し訳ありません』
 読んでいる途中にまた新しいメールを受信した。これも彼女からだ。
『今回は本当に残念ですが、また機会があればお会いしましょう。私はしばらく海外にいるので都合が合いづらいかと思いますが、よろしくお願いします』
 この二通の電子手紙の本文146文字で彼女との会う約束はなくなり、そして海外へ出張してしまう事実を読み取った頭で理解し、記憶した。彼女と会えないだけではなく、昨日まで隣にいたように思えていたのに突然消え去ってしまった感覚が俺を潔く突き刺す。
 そんなやっと会えると思ってたのに。やっと、本物の彼女に接する、触れられると思ってたのに。どうして、今なんだ。
 でも、納得はできる。彼女は多言語を習得していて外資系の大企業・一流企業に就職したんだ。国内はもちろん、日本を飛び出して海外での活躍も期待されていただろう。内定を決めた当初からあった構想だろう。予想できなくはなかった。でも、いくらなんでも早すぎるんだろう。メールの内容が信じられなくて、信じたくない久手、やっとここまで北からあらがっていたくて、違うと唱える。しかし、何分経ってもぬぐえず、彼女からのメールも来ず、ただ会えない。「海外へ行く」「しばらく日本にはいない」ということだけが俺の部屋に浮かんでいて、本当なんだなと悲しみにくれえる。
 どうして、どうして、今なんだろう。来年じゃ駄目だったんだろうか。来月でもよかったんじゃないか?タイミングの悪さに文句が向継がれてしまう。高校卒業後の三月にあの写真を見てから、彼女を追いかけてた、。まぶしくて暖かい彼女に会うために、その瞳に移して俺を入れてもらうために必死に姿を探していた。些細なことも彼女のことなら全部覚えた。一つでも多く彼女を知ったつもりでいた。知らなかったのは、その顔だけだった。どんなに性格や好みを知っていても、実際に会わないと意味がないんだ。だって、彼女と話して「やっぱりそうなんだ」と思えないじゃないか。確かめないと駄目なんだ。
 本当に、彼女は穏やかで優しくて、頭がよくて、外国語を駆使して海外で仕事をするのを夢に持ち、読書と甘いもの、特にクレープが大好きな控えめで友達思いの真面目で礼儀正しい女の子だと。そう、この目で知りたかったんだ。彼女のことを、彼女のことを。こぼれそうな涙の粒を覆うようにベットに潜り込み暗くてかなわない夜に自分を溶け込ませて、今自分が抱えている感情、何もかも構わず全部、全てを吹き飛ばすような朝日を待った。

 突然の彼女と会う約束がなくなったうえ、海外への出張で距離が一段と空いてしまってどうしようもない口惜しさと脅かし差にさいなむ俺だったが、めげずにその後も休みが取れれば会う約束をしようとするが、その度彼女は会社の命令で出張先を転々としてなかなか都合がつかない。出張先は当然海外で近づくどころか、徐々に遠くなってく。二本を疎むように。そりゃそうだよな。一回海外行ってすぐ日本に戻ってくるはずがなかった。誰のせいでも泣くと分かっていながら、要員のすべてに当たり散らしたくなる。でも、できないから。一度でも会えないのかと、ぐしゃぐしゃになって雫を机の上に落としていく。大量の雫が溜まって湖のように。湖に行く川の流れは止まらない。

 夜。部屋の窓から星空が見える。開けることはなく見つめている俺は、純粋な星の輝き人とも思わなかった。ただ、今の暗闇に沈み込んだ自分に身を任せていた。どうしてこうなったんだろうな。俺はただ好きな人に会いたくて必死に追いかけていただけなのに。最後には会わない、ではなく、物理的な距離ができてしまった。彼女が海外出張に行ってから。あの知らせから二年後、彼女は出張席を転々とし始めてさらに困難になった。また会えなくなる。度重なる海外でのしゅうっ長。でも、俺が悪いんだと思った。だって、俺が転勤で動く度、彼女も動いてしまう。近づこうとしても話されしまう。まるで磁石だ。何度かえようとしても、駄目だった。ただ、離れていくだけだった。そんな運命なのか、と俺は表情を崩さず涙を流す。

 再び、星空を窓から眺める。俺の世界は羅針盤がくるってるみたいだ。
 羅針盤は外国語でアストロラーベ。船の航海に用いられ、どの方角へ行くが決めていたらしい。でも......。
 アストロラーベは彼女のいる場所を教えてはくれないんだな。
 一縷の希望も、あっけなく瞬きを失っていく。


 そういえば、思い出した。アストロラーベは羅針盤じゃない。
 天体観測器で、平たく言えば星座早見表だ。昔の船乗りは星を見て方角を確認し、舵取りをしていたから天体観測に関係しているんだ。勘違いしやすいと誰かが言っていた。
 それじゃあ、見つかるなずもないな。だって、勘違いだから。

 夜が深まり、星の輝きはより一層大きくまぶしく瞳に写る。
 もう、何を言ったって、どうしたって、仕方ないな。


 俺は一人で生きよう。この狂った羅針盤の世界で。
 アストロラーベも持てない世界で。

 彼女を思いながらもどこかで生きているだろうと目を閉じる。

 初恋の彼女のいない世界で一人で生きる。

 君のいない、独りきりの世界で生きる。

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