ファンタジーに浸っていたいのさ僕ら
人間の脳には、0から1を生み出す能力をもつ部位があるらしい。
簡単に言えば、想像を司る脳器官。
眼球の奥に位置する前頭葉の少し下。
例えば、
見たこともない景色が夢の中に現れたり。
ふと知りもしない曲を口ずさんだり。
そういった行動は、全てその脳の一部が引き起こしている現象なんだと。
いつからか空想をやめてしまった。
脳が死んでしまったのだ。
幼い頃は、空想ばかりしていた。
夕暮れ時に「あちら」と繋がる鏡。
決まった順番に押し込むと秘密の道が現れるブロック塀。
夜になると動き出す家具たち。
自分の言うことをきく風と雨雲。
世界の全てがファンタジーで溢れていた。
夢日記は混沌を生み、ノートの隅の創作物は億を超えた。
ミミズのような文字で書き連ねてあるファンタジーの世界は、めちゃくちゃではあるが
「どうしてこんな事思い付いたんだろう」と思うものばかりだ。
脳みそのファンタジー器官が活発化していた確かな証拠。
今は無き、その脳みそ。
…
「だから、もう引退しようと思うんです」
テーブルの向かいに座る彼女は、額を抑えながら伏し目がちにそう言った。
静かなカフェミュージックがお互いの間を気まずそうに漂う。
冷え始めたコーヒーに店の安っぽい電球が反射して揺らめいた。
頬が強張り、じわじわと焦りが胸を焦がす。
僕は目頭が熱くなるのを必死に堪えながら彼女を見つめた。
「…嫌です、辞めないで下さい」
情けないほど震えた僕の声に、彼女は思わず小さく笑った。
額を抑えていた手をテーブル上の絵本に伸ばす。
「ごめんなさい、でもこれで最後にしたいんです。私はもう何も生み出せません」
白くて細い指が、我が子の頭を撫でるように本の表紙をなぞる。
そこには一面に広がる草原と、空飛ぶ汽車が淡い色合いで描かれていた。
浮き出し加工の金色のタイトルの下には、その美しさを踏みにじるように「今話題のあの本!」と安っぽい帯が巻かれている。
「自分に見切りをつけたいんです。しがみついて、引き留められて、私の可能性を潰してしまうのもおかしいでしょう?あなたにその責任がとれるの?」
丁寧で迷いのない彼女の言葉。
反対にどんどん揺らいでいく自分の気持ち。
僕はコーヒーカップの中で滲む光から目を引き剥がし、彼女の瞳を恐る恐る見上げた。
コーヒーよりも暗く、
どこか試すような底知れない瞳。
引き留めねば。
カラカラに乾いた口をひらく。
「…あの、」
グワっと一気に目の奥が熱くなる。
喉から音を出した瞬間、堰をきったように涙が溢れ出した。
「あ、違…なんで、」
抑えきれない焦燥に止まらない涙。
泣きたくなんてないのに、次から次へと際限なく溢れ出る。
悔しい。どうしたらいいか分からない。
「責任…とります、だから…」
鼻声になりながら訴えた。
いかに貴方の作品が好きか。
どれだけ貴方を追いかけてきたか。
何枚もの紙ナフキンが濡れて机に積まれていく。
コーヒーはとっくに冷えてカップにこびりつく。
「もう、いいです」
彼女がそう言うまで、僕は喋り続けた。
…いい年をした男が人前で泣くなんて。
あまりの恥ずかしさに、必死に顔を拭って彼女を見上げる。
「すみません、こんな、取り乱して…」
「嘘ですよ」
「、えっ」
彼女は鞄から財布を取りだし、千円札をテーブルにおいた。
びしょ濡れで呆けた顔をしている僕に微笑みかける。
「嘘です、全部」
スタスタと席を離れ、入り口のドアに手をかけた。
チリンと古い鐘が鳴る。
「やはりミューズの泣き顔は創作意欲が増します。次回作の下書きがあるので失礼しますね」
「えっ」
バタン。
あっという間に去ってしまう彼女。
僕はぐしゃぐしゃになった紙ナフキンを握りしめながら、いつまでもそこに座っていた。
っていうのがあったらいいよね。
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