報恩(第5回阿波しらさぎ文学賞 落選作 )

 本当に黒金の橋が架かり、狐が近々戻ってくるやもと厳戒態勢が取られて三十年余が経つ。狐の侵攻はただの一度もなかったが、その間に政治は腐敗を極めた。止め名でもある屋島太三郎、隠神刑部が続けざま病に伏してしまい、同じく長老衆の大名跡であった小松島金長も長らく空位だったため、これ幸いと二軒屋町のおっぱしょ喜六を筆頭に元老院とその一派が私欲を肥やしに肥やしたからである。法の解釈を拡げ、あらゆる利権を独占して富を一極化させた。それらは周到に為され、識者や聡い若者が気づいた頃には手遅れだった。新たに定められた櫓番という悪しき制度も腐敗を加速させた。三基ある橋の袂に小さな見張り櫓を建てては対狐防衛前線と称し、火種となりうる反抗勢力や謀反の疑いがある者にことごとく任を課した。ヤマモモの葉が三枚。それが召集令代わりだった。
 元老院たちは「一番槍は誉れである、狸の美しき楽園を守護する防人となる」などのプロパガンダを臆面もなく発した。元老院を疑いすらしない老いた爺婆たちはもれなく奮い立ち、子や孫らには英傑として名が刻まれるよう櫓番の志願を促しさえした。もちろんそんなものはただの名目で、本質は政治へ干渉させないためであった。櫓番は前線とされ、持ち場を離れることは決して許されなかった。はじめのうちは三年だった任期は五年になり十年になった。その間、寄合やら頭株投票への参加はおろか、生まれ育った地で人に化け、人の世で暮らしてゆくことすら叶わなくなったのである。これにより、何代にも渡って築かれた人の世の地位を失う家もぽつぽつ出てきた。当然なかには櫓番を逃げ出す者も現れたが、ひとたび規律を破れば一族郎党まで折檻が及んだ。
 革新派とされる若者は漏れなく櫓送りに遭った。五倍木の九郎太もその口である。
 賢君と名高い六代目金長の遠い遠い傍系で、化けの腕前もたしかであり、政治の中枢は無理でも那賀郡あたりの頭株になってもおかしくなかった彼だが、近頃の元老院のやり口には甚だ疑問だった。弘法大師が狐をこの地より遠ざけてから千年余り、いまさら狐が四国を支配下に置きたがっているとはどうにも思えなかったからである。事実、人に化けて佐渡団三郎のもとに視察へ行った際など「そのんのんないない」と一笑に付されてしまった。よくよく考えてみたら化けられるのは狐も同じであるから、弘法大師がご存命の頃ならいざしらず、もはや黒金の橋など関係がないのだ。「そうなったときゃ暴力沙汰やのォてまず狐といっぺん話し合うてみるべきじゃろうが」と那賀の長老衆に具申したのは心から思ってのことだったが、元老院派にしてみれば粛清の対象になるに充分だった。

 九郎太には望みがあった。小松島金長の名跡である。
 家柄も弱く血筋の薄い彼にとって、あまりに分相応な夢であった。口にすれば阿呆じゃ欲深じゃと笑われるのがつねだった。しかしそれは断じて、元老院のように振る舞いたいからではない。富や名声すらどうでもよかった。金長まんじゅう、その座がほしかった。
 彼がまだ幼かった時分、人間の子どもに救われたことがきっかけである。子は武彦といい、利発でいつもにこにこ笑い、誰であっても分け隔てなく優しかった。それは狸に対しても同じであって、九郎太が父親によってひどく痛めつけられ、狸のまま人里で横たわってしまったときも手当てを施し、その背をさすり、自らの好物の菓子を惜しみなく与えてやるほどだった。「これこれ、よお食べるか?」それこそが金長まんじゅうであった。初めて口にするそれはこの世のものとは思えぬほど美味で、九郎太は大怪我をしている身なれど、すぐさま平らげた。その姿を見て武彦は歯を剝いて笑い、もうひとつまんじゅうを九郎太へ手渡した。このご恩は決して忘れませぬ。声こそ出すわけにはいかなかったが九郎太は武彦に深く感謝し、それからというもの、たびたび彼のもとへ現れては助けになった。狸の姿で、人の姿で、ときには雨傘や電燈に化けて。昭和南海地震の際は武彦の家族を救い、祝言を成功へ導き、大晦日に外へ出てしまった武彦の子を夜行から守り抜いた。
 武彦は老いても金長まんじゅうが大の好物であった。九郎太のときとまったく同じようにして、子へ、子が大きくなれば孫へふるまった。その菓子が遠い親類の名を冠していることが九郎太には誇らしかったし、同時に苦しい気持ちだった。かつて、酔っ払った父親が母親や九郎太や幼い弟妹たちに暴力をふるうときは決まって「五倍木とちゃうぞ、おらは金長、六代目の血筋じゃが」とおらんでいたからである。武彦と出会った日もそうだった。気の小さい父親は若い頃からの深酒がたたってもうこの世になかった。化け狸にしてはごくごく短い一生だった。
 やがて床に臥すようになった武彦のところに、九郎太は足しげく通った。武彦は小学校の校長を長らく務めていたので知人に化けるのはたやすかった。四人くらい見つくろって順番に化けた。記憶が曖昧になったところはあったが、武彦はしゃんと喋り、よく笑った。それから「センセはもう食べれんけん」と必ずまんじゅうを土産に渡した。太く逞しかった腕は見る影もなく、か細い骨にかろうじて皮が張り付いているだけだった。九郎太は差し伸べられた手を見るたび、かつて助けた狸について覚えているか尋ねたい衝動に駆られた。武彦に拭いきれぬ死がまとわりついて、初めて、どうしようもなく先に旅立ってしまうのだと悟り、化け姿ではなく九郎太として言葉を交わしたいと思ったのだ。いかに化け狸といえど、病を治癒するすべはなかった。
「おまはんほんまこれ好きじゃの」
 いつものようにまんじゅうを渡すとき武彦は言った。耳をすまさなければ聞き逃してしまいそうなほどささやかな声だった。九郎太はどきりとした。化け狸と知られるのはなによりのご法度だったからである。だが同時に嬉しくもあった。飛び上がって騒ぎたい心持ちだった。しかしながら、すぐに、それは九郎太が化けている人間に対してかけた言葉にすぎないと思い至り、やがて泣きだしてしまった。あの日、あんときに助けてもろた五倍木の九郎太です、死んでほしない。九郎太は叫び出しそうになるのをぐっと堪え「ありがとうございます、ほんま甘いもんに目がのおて」と濡れそぼった目尻を拭った。それが、ふたりが言葉を交わした最後となる。九郎太が臨終を看取ることは叶わなかった。櫓送りに遭ったからである。

 九郎太は最大の防衛拠点とされた坂出の瀬戸大橋に送られた。彼にとって縁もゆかりもなかったが、それすら元老院の思惑だった。なるたけ遠い任地へ仕向け、家族や友、仲間から孤立させるためである。事実、表立って元老院を批判する機運はまたたく間に沈静化した。海の向こうからタイミングをうかがう狐の動向や、櫓番の同志のおかげで狐たちの情報は筒抜けで、平穏が守られていると回覧板で伝えた。櫓周りは危険なので決して近づかぬこと、と付け加えることも忘れなかった。数多くの識者や若者、人化けして橋を渡る者たちはそれらすべてがトンチキな嘘八百だとわかっていたものの、声をあげる者はいなかったし、爺婆たちは三基ある橋の方角に向かって朝晩欠かさずお祈りを捧げた。
 九郎太の予想通り、狐の侵攻を口実に独裁の地固めをしとるだけ、というのが櫓番を任ぜられた狸たちの総意だった。なかには人化けしている際に狐と友好を築いた者さえいた。だが声高に叫んで連帯するのは困難だった。というのも、櫓番のなかには元老院の息がかかった密使が潜伏していたからである。密告され、自分のみならず家族や恋人まで手ひどくやられたというのはどの櫓にも聞こえ及んでいた。九郎太に妻こそなかったが、母や歳の離れた弟や妹までもがこうむるのは堪えられなかった。
 櫓番は二交代制だった。人化けして櫓のそばをうろつき、役目が終われば近くの物陰で身を寄せながら隠れて眠った。運悪く人間に見つかった者たちは、憐れ、殺処分になることさえあった。任期が終わった者らが実情を喧伝してくれることを九郎太は期待していたが、そもそも櫓番が終わる者と出会ったためしがなかったし、噂さえ聞かなかった。
 そのようにして二年が経った頃、武彦が亡くなったことを九郎太は知った。

 報せを届けてきたのは新たに櫓送りにされた九郎太の遠い親類だった。訃報を聞いた九郎太はたちまち泣き崩れた。亡くなったのは一年以上前のことだという。不用心に狐のことなど切り出した自らの愚鈍を悔いた。それから彼は、金長まんじゅうを手渡してくれた指先を思い出し、触れ合ったときの温もりを思い出し、歯を向いて笑う武彦の顔を思い出し、投げかけてくれた言葉をひとつひとつゆっくりなぞりながら三日三晩泣き腫らした。喚けば他の狸たちが人間に見つかってしまうやもしれぬから声を殺して泣いた。
 しばらくして、屋島太三郎が亡くなり、二軒屋町のおっぱしょ喜六が八代目の小松島金長を襲名したという噂が方々に伝った。病に伏せたままの隠神刑部もいつ身罷るかわからぬ、大名跡が空位のままではいずれきたる狐の侵攻に対して心もとない、というのが大義名分であった。九郎太には、それがどうしても許せなかった。どうしてもどうしても許せなかった。武彦との思い出が汚されたように感ぜられた。名を成し、いつか金長を継ぎたかった。阿呆呼ばわりされてもそれが、それこそが九郎太の望みであった。武彦に、その子に孫に、自らの名が付いた菓子で育ったんやでと誇ってみたかった。あるいは、亡き父親の墓前で、血筋がどしたんじゃ、オレこそが金長じゃと言い返してみたかった。
 意を決した。九郎太は意を決した。
 必ずや反旗をひるがえし、世俗にまみれた元老院たち、ひいては二軒屋町のおっぱしょ喜六、今にして八代目小松島金長を打ち倒すことを心に誓った。強く強く誓った。理由はどうあれ金長の名に弓を引けば、もう今生で名跡は継げぬ。だが、それでも、その名が貶められることの方が耐え難かった。
 九郎太はかねてより面識のあった大煙管の親戚筋である文楽、櫓送りになってから親交を温めた新居浜小女郎の玄孫の小梅、それから狐と交友にある四代目白徳利にまず声をかけ、彼らを中心に有志を募っていった。十やそこいらになれば御の字だと九郎太は考えていた。家族や恋人を人質に取られ、ましてや朝敵になるのだ。彼の勘定も尤もだった。だが、腐った政や虐げられてきた不満はそれよりもずっと強かった。櫓番を課されていた者たちは次々と手を取り合い、やがてその動きは大きなうねりとなって瀬戸大橋の櫓を包んでいった。火種をそこかしこからずいずい送り込んでいたせいで、櫓はさながら梁山泊であった。鳴門赤殿中、浄願白禿、勝山六角堂、須江豆狸……直系傍系当代師匠筋、阿波も讃岐も伊予も土佐も分け隔てがなかった。
 その動きを報告しようとした密使もすぐさま捕縛された。元老院とその一派がいかに横暴でずさんな政治を執り行っているかを証言せざるをえなくなり、にわかに櫓は活気づいた。五倍木九郎太を総大将として一大の群勢が興ったのである。文楽は「五倍木やこんまいところやなしにせめて那賀じゃろ、ほうか瀬戸大橋とか」と指摘したが、九郎太は「五倍木、五倍木がええんじゃ」と笑った。

 かくして起こった蜂起が、のちに令和の勝浦川合戦と呼ばれるになったかと訊かれれば、そうはならなかった。そのような大局にさえならなかった。
 元老院たちが集う鎮守の森、四国山脈の奥地へ南下してゆくのと同じくして、九郎太率いる一群は村々をまわっては櫓番の悲惨な現状を訴え、狐の侵攻は元老院たち世迷言であると説いた。不正を知りつつ言いなりだった識者や若者は機として九郎太たちに共鳴の声をあげ、櫓番になったきり文さえなかった子や孫が姿を現したことで爺婆たちもすっかり目が覚めたのである。五倍木、五倍木の九郎太が瀬戸大橋の櫓番をまとめあげ金長へ上奏しに向かう。一派が放蕩三昧の暮らしを送っていること、年々重くなる税はそのせいであると洩れ聞こえてくると、いよいよその勢いはとどまることを知らず、隣の村へ町へ川を挟んで山を越えて次々伝わっていった。あぐらをかいていた金長はじめ元老院たちが全貌を掴む頃には、とうに手に負えない状態だった。それに加えて元老院のなかでも、金長、もといおっぱしょ喜六をやっかむ派閥が生まれ一枚岩でなかったことも幸いした。
 彼らが鎮守の森の大社にたどり着いたときには大勢はすでに決していた。もはや九郎太は朝敵ではなく悪政を打ち砕く英傑であった。「二軒屋町おっぱしょ喜六、おまはん、もう観念せえ」九郎太は社に籠城する喜六に言った。九郎太は、すぐさま社へ突入し、元老院たちの首を噛みちぎりたがっている若衆を制止することを忘れなかった。暴力沙汰やのォてまずいっぺん話し合うてみるべきじゃろうが。かつて櫓送りの原因となった自らの言葉を、彼は忠実に守った。
「それが狐の甘言でない証左がどこにある」
「ない! ほなけんどこなんして分断されとるよりずっとかええ」
「阿呆や阿呆がおる」
「金長の名、おまはんにはふさわしない」
 群勢は鬨の声をあげた。もはや行く末は明白だった。元老院たちが投降を始めたとき、誰もが終わったと思った。その瞬間まで、平和的にすべてが解決したと疑わなかった。暗君として伝わる八代目金長が、六代目金長との類似を挙げるとすれば、相手方の大将の首を掻き切ったことのみであろう。それは九郎太であった。九郎太の首筋であった。

 今なお伝え聞こえる四国狸をまとめあげた英傑、九代目小松島金長こと五倍木の九郎太は大煙管文楽、新居浜小梅らによって手厚く葬られ、その骨の一部は武彦の墓石の隣に安置されている。彼の物語は語り草となり、四国の方々から人化けした狸たちは、わざわざ武彦のところにまで金長まんじゅうを供えにやってくる。なんの事情も知らない武彦の子や孫、そのさらに孫らは「じいちゃんはほんまに立派な人やったんやなあ」なんて言いながら笑う。みな武彦と同じように、歯を剝いて笑う。

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